7つのチャクラ 
魂を生きる階段 
キャロライン・メイス  川瀬勝一・訳 
 サンマーク文庫
 

 第二の法則――健康でいるためには内面の力が欠かせない

 ある日、ノームから連絡があり、うつ病と、首と腰の慢性的な痛みに悩まされている女性の診断を求めてきた。磁気を用いるタイプのさまざまな治療が彼女にとっていいと思うかどうかたずねられ、私はこう言った。「絶対にダメです。体内に力がないので、その種の機器の恩恵は受けられません」
 癒しに関連して、その人の力について見解を述べたのはこれがはじめてだった。ノームにもうすこし詳しく話すように言われ、はじめて自分が何を言ったのか気づいた。突如として私は、人間の気のシステムを内面の力の表現として見るという、これまでとまったく違う感覚をもったのである。
 この女性の態度が、彼女に力を失わせている、と私は説明した。自分には人間として何かが欠けていると感じていて、いつも人の承諾を求め、ひとりになることに言い知れぬ恐怖をおぼえているとも言った。彼女の自尊の念は、まわりの人間、おもに自分の子供たちを支配する力にもとづいていた。彼女の恐れ、それに自分には何かが足りないという気持ちは、まるでブラックホールのように、みんな(とくに子供たち)を吸い寄せ、最終的にはそこに入る人をめちゃくちゃにしてしまう。子供たちに対してあれこれ文句を言いつづけているのは、弱い子供であれば彼女に依存し、巣を離れることができなくなるからだった。彼女はまた、成績でもスポーツでも子供たちが成しとげたことに対し、とにかく何かしら欠点を見つけ出す。それは、自分が精神的な支えとなることで、子供に力を与えるのがいやだったからだ。まわりの人間を支配するには、かなりのエネルギーが必要であり、しかも実際に自分が支配していると感じることがまったくなかったために、彼女はいつも疲れきっていた。慢性的な痛みは、ほかの人間を支配できないために起きたことだった。ノームのオフィスにやって来たときには、彼女は打ちひしがれた姿をしていた。
 この女性は、いつか子供たちが家を去るという、避けようがない出来事に対処することができなかったのだ。なのに、何でも子供のためだけを思ってしてきたということ以外、けっして認めようとしなかった。清潔な家庭と健康な食事、そしてきちんとした衣服を提供してきたのだから、子供たちをしっかりと支える立派な母親なのだと自分では思い込んでいた。しかし、つねに子供たちの感情面での発達を押さえ込もうとしてきたというのは、彼女が認めることのできなかった事実である。
 通常の医療措置が役にたたなかったため、ノームは代替的なアプローチを考えていたが、それは心理療法、電気を使った頭骨刺激、色療法、光療法などだった。もしこういった療法を使ったとしても、1週間か1カ月くらいはいい結果が出るかもしれないが、とにかく人を支配するという病的な闘いをあきらめないかぎり、完全に治ることはないと私にはわかった。
 あの日、代替療法が成功するには、患者は内面的な力という概念をもっていなければならないということが私には見えたのだ。つまり、内面のエネルギーを生み出し、自分はひとりでやっていけるというような、感情的な力を生み出す能力である。この女性には、外面的な意味での力の概念しかなく、それを子供たちという外部の源から得ていた。心理療法を受けることはもちろん可能だ。しかし、彼女自身が自分の真実と直面しないかぎり、それは毎週1時間、ただ自分の不平不満をあげつらねる時間になってしまい、実際の癒しは起きない。M・スコット・ペックが「平気でうそをつく人たち」(邦訳、草思社)と『愛と心理療法』(邦訳、創元社)で指摘したように、私たち自身の真実、自分が抱える問題をどのように自分がつくり出しているかについての真実、そしてまわりの人間とどういう関係をもつのかについての真実をまず見ること、そしてその真実を認めることが癒しには欠かせないのである。
 この女性の診断を通じて、人生における力の役割、また私たちの気系での力の役割について私は洞察を得ることができた。力というのは、人間としての体験の根っこにあるものなのだ。肯定的であれ否定的であれ、ものの見方や信念のパターンは、すべて私たちがどういうかたちで力を定義し、それを使う(あるいは使わない)かの延長である。誰ひとり、力という問題から自由でいられる人間はいないのだ。たとえば自分には何かが足りないという気持ちや、無力感に対処しようとする。逆に人を支配しようとするかもしれないし、自分に力を与えてくれると信じる状況を支配しようとするかもしれない。あるいは、人間関係での安定性(これも力と同義語だ)を維持しようとすることもあるだろう。自分にとって力を象徴する何か、たとえばお金や仕事を失ったり、ゲームで負けたり、あるいは自己や力というものを感じさせてくれる存在、つまり配偶者や恋人、親や子供をなくしたあとに病気になる人も多い。力との関係は、私たちの健康の核にある問題なのだ。

 第一の法則、身体は人生の履歴ということと、第二の法則、健康でいるためには内面の力がいるということを、まとめて考えてみよう。力は私たちの内面の世界と外界との仲介役を果たし、その際に神話的な言語と象徴でコミュニケーションを行う。たとえば、いちばんわかりやすい力の象徴であるお金のことを考えてほしい。お金を力の象徴として自己の内面に取り入れると、お金を稼ぎ、支配することがその人の健康を象徴するようになる。お金を稼ぐと、その人の身体は、体内に力が入ってきたという信号を受けとる。「自分にはお金がある、だから安全だ、安心できる。自分には力があるし、これですべてはうまくいく」という無意識のメッセージを心が伝達する。身体に伝達されるこの肯定的なメッセージが、健康をつくり出すのだ。もちろん、お金をたくさん稼いでも、健康が保証されるわけではないが、貧困、無力感、それに病気は、間違いなくつながっている。お金を稼げなくなったり、突然お金を失ったりすると、身体が弱くなることもある。
 1980年代半ばのこと、まるで伝説のミダス王のように、ふれるものすべてが黄金となっていたある男性のことを思い出す。自分の会社は大成功し、彼にはまるで十人分のエネルギーがあるかのようだった。毎日遅くまで仕事をし、夜中まで人とつき合い、しかも誰よりも早く出社した。いつも頭は鋭く、陽気で、何でも来いという感じだった。だが、1987年、株価が暴落し、彼の会社も巻き添えとなった。数か月もしないうちに、彼の健康は悪化しはじめる。偏頭痛がするようになり、腰痛が起き、そしてついに深刻な腸の
障害が起きた。遅くまで働くことも、社交生活もかなわなくなり、自分の金融王国を生き延びさせるための操作を除いて、あらゆる活動から身を引いたのだった。
 この男性は、自分の健康を金稼ぎに「同調させて」しまっていたことに気づかなかった。しかし、病に倒れてからは、すぐにこのつながりが見えたのだ。彼が悟ったのは、自分にとってお金は自由を象徴し、いつも夢みていたライフスタイルを実現する能力の象徴だということだった。財産を失うことで、彼は力を失い、身体もだめになるのに何週間もかからなかった。事業を再生させるストレスはその人を弱めるものだろうが、この男性には、会社が成長していたときにも、これと変わらぬほどのストレスがあったはずだ。にもかかわらず、そのときのストレスは彼に力を与えていたのである。
 人にはそれぞれ、力を象徴するものがたくさんあり、そのひとつひとつに身体のなかで対応する部分がある。膵臓ガンを患った歯科医も、やはり力の象徴をもっていた。仕事である。しかし、自分の仕事をくだらなく思うようになったため、日一日と力を失っていたのだ。力の流出は、生物的な反応をつくり出し、それが続いた結果、末期的な病気がつくり出されたのである。
 私たちの人生は、力の象徴を軸に築き上げられている。お金、権威、地位、美、安定などだ。人生を満たす人間関係、そして一瞬一瞬にしていく選択は、内面の力の象徴である。自分よりも強い力をもっていそうな人に反論するのをためらうことはよくあるし、断る力がないとあきらめて同意することも頻繁に起きる。数限りない状況や人間関係の裏に隠されているのは、力を軸にしたやりとりである。誰が力をもち、どうすれば自分の分け前を保つことができるか、ということだ。
 気の象徴言語を学ぶとは、自分自身やまわりの人間の内面の、この力の動きを学ぶことである。気の情報は、つねに真実を見せる。その人の気は、人前での言葉に隠された本当の気持ちを表明し、その真の気持ちは、必ず何らかの象徴的なかたちをとって現れてくる。私たちの生体、霊体は、つねに真実を表現しようとするのであり、そのための道を必ず見つけ出すものなのだ。
 私たちは、自分に力を与えるものは何かを意識する必要がある。大切なのは、まず自分の力の象徴が何かを明確に把握すること。そしてその象徴に対する自分の象徴的、物理的な関係は何かを理解することだ。このようにして、身体や直観が伝えてくるメッセージに耳を傾ければ、どんな病気に対しても、癒しが起きる環境が整えられる。
 
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