7つのチャクラ 
魂を生きる階段 
キャロライン・メイス  川瀬勝一・訳 
 サンマーク文庫
 

 「同族」という文化の強さ

 最初から、意識的な意志の力をもつ「覚醒した」個人として人生をはじめる人間はいない。そのようなアイデンティティはもっとずっとあとになって現れ、子供から大人へと成長していく過程で、段階的に発達していくものだ。集団の一員として人生をはじめる私たちは、その強みや弱み、信念、迷信、それに恐れなどを吸収することで、同族意識と集合意志力の一部となっていく。
 家族やほかの集団とのふれあいを通じ、他人と信念を共有することによって、私たちは力について学ぶ。また、集団とそのエネルギーから隔絶されることが、いかに苦痛に満ちた体験であるかも学ぶのである。同時に、世代から世代へと伝えられてきた倫理的、道徳的な掟を共有するのが、いかに強力なことかも学ぶ。この学びの過程は、特定の集団の子供たちの発達段階において、彼らの道しるべとなり、尊厳とは何か、帰属するとはどういうことかについての意識をもたらす。
 集団としての体験は「気的」に私たちをつないでおり、集団のなかではみんな同じような考え方をする。たとえば「人類はみな兄弟である」といったような高等な考えも、あるいは「13いう数は縁起が悪い」というような迷信的なものも然りだ。
 集団の力、および関係するすべてのテーマは、気的に見ると、私たちの免疫系、脚部、骨格、そして直腸とつながっている。象徴的に見ると、免疫系は、身体にとって集団の力が果たすのとまったく同じ役割をしている。損傷を与える可能性のある外部の力から、身体全体を守る、というはたらきだ。免疫系に関連する病気、慢性の痛みや、骨にかかわる障害などは、気的に見ると、個人レベルでの集団に関連した問題が引き金になることが多い。集団全体としての困難は、基本的に私たちの第1チャクラから力が失われる原因となり、それがきわめて強いストレスとなると、ごく普通の風邪から膠原病までの、免疫関連の病気にかかりやすくなる。
 同族チャクラは、いいもの、悪いものを含め、集団としての体験とのつながりを象徴している。伝染病の流行は、集団としてひとつの悪い体験であり、私たちひとりひとりの第1チャクラに関係する恐れや考え方が、その集団の文化全体の「第1チャクラ」と似通っていると、その病気にかかりやすくなってしまうという性質のものだ。ウィルス性、その他の流行性の病気も、同じ文化をもつひとつの集団が抱えている問題点、それにその社会集団の「免疫系」の健康状態をはっきりと反映する。
 社会的な集団の気の力の状態が病気を流行させるという劇的な例は、1930年代、40年代の小児マヒの大流行だ。1929年10月、アメリカ経済は崩壊し、大恐慌がはじまったが、それは国全体に影響をおよぼした。多くの政治家やジャーナリスト、それに企業の重役や労働者も、男女を問わず、誰もが自分はこの経済崩壊で「手足をもがれた」ように感じると、その体験を表現した。
 1930年初期、小児マヒは大流行の兆しを見せはじめたが、それはひとつの共同体としての国家の精神が、手足をもがれた状態であったことを象徴していた。実体験、あるいはその恐れから、経済的に「手足をもがれた」と最も強く感じていた階層は、気的に見ても小児マヒのウィルスに最も侵されやすくもあった。子供はその集団の気を吸収するため、アメリカの子供たちは、経済的な病と同じように、ウィルス性の病にも影響されやすくなっていたのだ。すべてはひとつ、なのである。
 手足をもがれた、との感覚は、非常に速いスピードで集団の精神構造の一部を織りなすようになったため、アメリカの選挙民は、小児マヒのウィルスによって手足に障害を受けた大統領、フランクリン・ルーズヴェルトを選ぶことさえした。ルーズヴェルトは、肉体的な弱さと同時に、不屈の抵抗力の象徴でもあった。
 第二次世界大戦が終わるまでには、アメリカ国家はふたたび世界の指導者の役割を演じるようになっていた。そのため、この国の同族意識のチャクラには絶大なる誇りと力がもたらされた。この復活も、集団の声を代表する人びとの言葉に映し出され、癒された新たな文化は、経済的に「両足で立てるようになった」と表現されたのである。集団の精神が癒されたことを反映する、この意識のシフトとともに、小児マヒのウィルスも克服することができる状態となった。集団の精神、それにその思考は、究極的にはウィルスよりも強かったのである。偶然ではなく、1950年代初頭に、ヨナス・サルクが小児マヒのワクチンを発見する。

 (中略)

 個人の第1チャクラの健康を維持できるかどうかは、私たちひとりひとりが、自分の集団との関係で抱えている問題点をしっかりと把握するということにかかってくる。もし自分が社会の犠牲になっていると感じているのなら、そのネガティブな見方に対処し、自分のエネルギーを減衰させないようにしなくてはならない。さまざまな療法の助けを借りることもできるだろうし、何かの技能を身につけること、自分の置かれた状況の象徴的な意味を求めること、あるいは社会の考え方を変えるべく、政治活動にかかわることも可能だ。自分の集団の文化に対する反感をつのらせることは、私たちの気を激しく乱し、内面の葛藤を継続させる。しまいには、「すべてはひとつなり」という聖なる真理がもつ、癒しの力とつながることを妨げてしまう。
 それぞれの集団は、「世間」での人生がどんなものかを教える。世界は安全な場所なのか、危険なのか、豊かか貧困か、教育水準が高いのか無知なのか、あるいは搾取すべき場なのか、与える、べき場なのかを教えてくれるのである。そして、現実そのものの本質についてのに方も伝える。例をあげれば、この人生はたくさんある選択肢のうちのひとつなのか、これしかないのか、といったようなことだ。自分たちと異なるほかの宗教や倫理観、人種などに対する態度も集団から受け継いでいく。私たちの集団は、思考過程を「起動さ
せる」はたらきもするのである。
 民族の性格を言い表す一般論は誰もが耳にしたことがあるだろう。「ドイツ人は規律正しい」とか、「アイルランド人は物語がうまい」などだ。私たちは、神や、見えない世界についての見方、またそういったものが自分とどうかかわるのかについても集団のなかで教えられている。「人に悪いことが起きるのを願ってはいけない。自分に返ってくるから」とか、「人のことをばかにすると神さまの罰が当たるよ」などだ。また、性別にまつわる見方もたくさん吸収していく。「男のほうが女より頭がいい」とか、「男の子はスポーツが好きで、女の子は人形で遊ぶのが好き」などがこれにあたる。
 私たちが受け継いでいく集団の信念は、真実と虚構が混じり合ったものだ。なかには永遠に変わらぬ価値をもつものもたくさんある。たとえば、「人を殺してはならない」といったようなものだ。しかしそれ以外は、永遠の真理とよぶにはふさわしいものではなく、もっと地域的で、「すべてはひとつなり」という聖なる真理に反して、ある集団をほかから分断する目的で使われている。霊的な成長の過程が私たちに与える難題は、集団から得たものについて、いいものだけを残し、悪いものを排除していくということだ。集団の教えに必ずある矛盾を超越してものごとを見るとともに、さらに深い真理のレベルを求めていくことで、私たちの霊的な力は増す。ものごとを象徴的に見ようと意識するたびに、気と身体の両面にプラスの影響を与えることができる。また、集合的な意味での生命体、つまり地球人という同族全体にも、良い気を与えることもできるのである。自分が成熟していくこの過程を、「霊的なホメオパシー」と考えたらいいだろう。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]