教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 ペリーに教えられた白旗の意味

 「1893年の夏、ペリーのひきいる、アメリカの4せきの軍艦が、浦賀(神奈川県横須賀市)の沖にあらわれました。ペリーは。友好と貿易を求める大統領の手紙をもって、幕府に強く開国をせまりました」(小学校社会科教科書より)
 実は、この時ペリーが幕府に渡したのは、大統領の手紙だけではありませんでした。いよいよ日米双方が面会するというその日、奉行所の役人がアメリカから渡された箱をあけてみると、中に二本の白旗があり、一通の手紙がそえられていました。その手紙にはおおよそ次のように書かれていました(松本健一 『白旗伝説』新潮社)。
 「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理にそむき、その罪は大きい。通商をひらくことをあくまで承知しないならば、われわれは武力によってその罪をただす。日本も旧法をたてに防戦するがよい。戦争になればこちらが勝つのは決まっている。降伏するときは贈っておいた白旗を押し立てよ。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ和睦することにしよう」
 実際、ペリー艦隊はすでに砲門を陸に向けていつでも火を吹けるように準備していました。結局、こののち日本は、関税の額や割合を独自に決めることもできず、外国人の犯罪を日本側でさばくこともできない不平等な条約を欧米諸国と結ばざるを得ませんでした。
 武力を背景に弱い国を脅して要求をのませたペリーのやり方は乱暴きわまりないことです。しかし、このような「砲艦外交」はアメリカだけがやっていたのではありません。弱肉強食は、当時の国際社会の掟ともいえるものでした。
 日本が武力によって屈服させられたことは、当時の日本人、とりわけ誇り高い武士たちにとっては屈辱的なことでした。このような状態におかれたとき、皆さんなら日本の進路をどのような方向にもっていったらよいと考えますか。
 日本の指導者たちは、当時の国際社会の掟を日本も受け入れて、いかに不平等な条約であろうとも忠実に守りました。そして、西洋の文明を取り入れて豊かな強い国にした上で、あくまで交渉によって条約を改正しようと考えました。こうしておこったのが明治維新であり、その後の新しい国づくりでした。
 ところで、日本では白旗は源氏の旗でした。そのなごりは今も学校の運動会に見られます。白旗が降伏のサインであることを日本人はペリー来航の時、はじめて知ったのです。それから約90年後、日本はアメリカと激しい戦争をして負けました。
 だから、アメリカの歴史教科書のなかには「日本は二度降伏した」と書いてあるものがあります。この「二度の降伏」をはさむ90年間の、教科書が語らない日米関係の歴史を、これから12回にわたってお話しします。 (藤岡信勝)
 
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