教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 ルーズベルトに救われた日本

「日本は、1904年(明治37年)、満州のロシア軍をせめ、ついに日露戦争を始めました。……日本は……苦しい戦争を続けながら勝つことができました。そして、アメリカの仲立ちで、ロシアと講和条約を結びました」(小学校社会科教科書より)
 アメリカの仲立ちはどのようにして実現したのでしょうか。
 日露戦争は、日本が独立国として生き残ることができるか、それともロシアの植民地同様の国になるかの分かれ道になる戦争でした。日本よりはるかに大きな軍事力をもつロシア帝国と戦った日本は、世界の予想に反して勝ち続けました。しかし、その勝利は薄氷をふむようにあぶなっかしいものでした。日本海海戦で勝利した時点で、軍事費は国家予算の8年分を使いきっていました。日本の国内には補充する兵隊がもう残っていませんでした。一方、満州には新手を加えて集結した70数万のロシア軍がいました。戦争が続くと、疲れて弾薬も乏しくなっている25万の日本軍に壊滅的な打撃をあたえるでしょう。
 なんとかして講和にもちこみたいと思った日本政府は、アメリカに派遣していた金子堅太郎を通して、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに、講和の仲立ちをしてくれるよう依頼しました。金子はルーズベルトと同じハーバード大学の卒業生で、彼が大統領になる前から、友人としてのつき合いがありました。ルーズベルトは、こころよく承知しました。
 講和会議は1905年8月10日から、アメリカのポーツマスで行われることになりました。ロシア皇帝ニコライ二世は、交渉にあたるロシア代表ウィッテに「いかなる場合でも、1ルーブルの償金、ひとにぎりの領土も日本に譲り渡してはならぬ」と、厳しく命じていました。交渉は困難を極め、決裂しかかりました。この時、ルーズベルトが日本の苦境を救ってくれたのです。かれは、ひそかに両国の政府に、次のような内容の妥協案を示して、両国の考慮を促しました。「日本は償金の要求を撤回する。ロシアは樺太の南半分を日本に譲る」
 どうしてもロシアと講和を結びたかった日本政府にとってはこの妥協案は願ってもないものでした。ロシア皇帝も国内に厭戦気分が起きていたこともあり、ルーズベルト大統領の顔をたてて妥協する決心をしました。日本は破滅から救われました。
 ルーズベルトが日本に肩入れをしたのは、金子との友情からだけだったのでしょうか。そうではありません。かれは、ロシア皇帝の専制政治を不快に思っていました。それにくらべて、日本は開国してまだ50,年ほどしかたっていないにもかかわらず、積極的に欧米の新しい政治思想をとりいれ立憲政治をおこなっていることに好感をもっていたのです。
 (上原卓)
 
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