教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 インドネシア独立に戦った日本兵

 東京都港区愛宕にある青松寺には大きな石碑が建っていて、次の言葉が刻み込まれています。
 「市来竜夫君と吉住留五郎君へ 独立は一民族のものならず、全人類のものなり」。これはインドネシア初代大統領スカルノの言葉です。スカルノはなぜこのような言葉をおくったのでしょうか。
 17世紀ごろから、アジアの国々は次々とヨーロッパの植民地にされていきました。インドネシアも約350年オランダの植民地になります。オランダの行った愚民政策、貧民政策のもとで貧困にあえぐインドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳にまで低下したといわれています。それだけにインドネシア人たちのオランダへの反感は強く、「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放してくれる」というジョボヨヨ(12世紀の王)の予言が信じられるようになりました。
 日露戦争で日本が勝利すると、俄然現実味を帯び「黄色い強者」とは日本軍のことだと信じられるようになっていきました。だから、大東亜戦争が始まった翌年日本軍がインドネシアに上陸すると、現地の人は日本軍を歓迎し、積極的に作戦に協力しました。
 オランダを破った日本軍は軍政をしきました。それはオランダの政策とは大きく違っていました。日本軍は、(1)オランダ語に代わるインドネシア語の採用、(2)インドネシア人の軍事訓練、(3)住民組織の確立、(4)行政組織の重要な仕事のインドネシア人への委譲、を行いました(後にインドネシアが独立を勝ち取っていく上で、これらは大きな役割を果たし、4点は1958年発行インドネシアの中三用歴史教科書にも、日本占領の利点として記述されました)。
 ところが、日本は敗戦。インドネシアはその2日後の1945年8月17日に独立宣言を発表しますが、再びインドネシアを植民地にしようとオランダやイギリスは、一方的に攻撃を始めました。インドネシア独立戦争の始まりです。近代兵器で武装した英蘭軍に対し、インドネシアは武器がなく竹やりで立ち向かいました。
 その時、連合軍の支配下にあった日本兵の中で、軍を離れ、インドネシア独立のために戦う日本人が現れ、民間の日本人で立ち上がった人もいました。その数は千人とも二千人とも言われ、大半は戦死・戦病死しました。冒頭に触れた市来や吉住もこうした日本人の一人です。生き残った宮原永治は戦争が終わってインドネシアに残った理由をこう語っています。
 「自分がインドネシアに来たのはインドネシアを独立させるためです。それは自分の責任において最後まで完遂させなければならないと思ったからです」
 日本の軍政に問題がなかったわけではありません。しかし、インドネシアでは独立記念日に向けての記念パレードでいまなお、インドネシアの人々によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています。 (江崎圭伊子)
 
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