日本人の誇り
日本人の覚醒と奮起を期待したい 
藤原正彦・著 文春新書
 

 原爆投下への正当化

「罪意識扶植計画」にあるマスコミ向け禁止条項はすべて不当、と述べましたがなぜでしょうか。
 まず、事前検閲は、ポツダム宣言第10条に「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とありますから、明々白々な違反です。占領下ということで米国憲法を拝借したとしても、合衆国憲法修正第1条に「信教、言論、出版、集会の自由」がありますから違反です。またアメリカ自らがやっつけ仕事で作り上げた日本国憲法に照らしても、第21条には、「集会、結社、言論、出版の自由」の他、ごていねいに検閲の禁止まで謳われています。ほとんど冗談のような話ではないでしょうか。
 いや、憲法や条約にあろうがなかろうが、自由と民主主義を標榜するアメリカが、自由の中でも飛び切り大切な言論の自由を奪うというのですから、言語を絶する暴挙なのです。
 私は、拙著『国家の品格』(新潮新書)の中で詳述したように、自由、平等、民主主義といったものに懐疑を抱いています。人間の幸せと社会の平穏のためほとんどすべての自由はある程度束縛せざるを得ないと考えていますが、言論の自由、とりわけ権威とか権力を批判する自由だけは、地球上のすべての人間が無条件で保障されなければいけないものと思います。まさにその自由が奪われたのです。
 広島と長崎への原爆や日本中の都市に対する無差別爆撃が、人道上の罪であることは言を俟ちません。これは1907年に結ばれたハーグ条約の、第22条「無制限の害敵手段を使用してはならない」や、第25条「防守されていない都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」にも違反しています。民間人の住む家は防守されていませんから攻撃は許されないのです。なお、規模ははるかに小さいですが、日本軍も日中戦争中に重慶爆撃という恥すべきことを行ないました。
 アメリカも無差別爆撃が人道上許されないうえハーグ条約違反でもあることを知っていましたから、1944年までは主たる目標を軍事目標とし民間施設は爆撃しないようにしていました。
 ところがこれでは効果が上がらないということで、日本本土爆撃を担うグアム島の爆撃隊のハンセル司令官は解任されてしまいました。後任は非情で知られていたカーティス・ルメイ少将でした。彼がグアム島に赴任した1945年1月から、無差別爆撃が始まったのです。
 無差別戦略爆撃となれば、大統領の許可が必要となる作戦です。実際、前駐日大使で知日派の国務次官ジョーゼフ・グルーは、大統領に停止を進言しましたが聞き入れられなかったのです。B29爆撃機325機による1945年3月10日の東京大空襲では、下町を中心に一夜で10万人以上が死亡しました。一夜としては史上最大の大虐殺です。あらかじめ関東大震災時における被害状況を調べ、下町に木造住宅が密集していることをつきとめた上で、木と紙でできた日本家屋を最も効果的に焼きつくすために新たに開発されたE46という集束焼夷弾を落としました。だから被害地域が関東大震災の時と似ています。浅草などではまず円で囲うように周囲に焼夷弾を落とし、逃げ出せないようにしてから徐々に内側へ落として行って人々を追いつめました。ビルに逃げこんだ人も、吹きこむ火炎流で焼死あるいは窒息死し、隅田川は川面が溺死体で埋まりました。残忍な皆殺し計画でした。
 東京はその後も何度か爆撃されました。上空の強風を避けるため2千メートルほどの低空飛行から投下したので、爆撃は極めて精確でした。爆破でもしたら国民の底深い怨恨を買うであろう皇居は目標から外されました。ロシア正教の二コライ堂、ロックフェラー財団の寄付で建てられた東大図書館、米国聖公会の寄付で作られた聖路加国際病院や立教大学、占領後に自分達が利用しようとした銀座の服部時計店(米軍PXとなった)、第一生命ビル(GHQ本部となった)なども外されたから無傷でした。その精確さには驚きます。徹底的だったので終戦後3年たっても御茶ノ水駅界隈に高いビルはほとんどなく、二コライ堂がすっくと青空を背にそびえていたのを覚えています。             
 無差別爆撃は東京だけでなく、全国の大都市はもちろん、ほぼすべての中小都市にまで拡大されました。
 1945年8月になってもまだ盛んでした。8月1日から2日にかけて行なわれた水戸、八王子、長岡、富山への猛爆は、ルメイ司令官の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝うためだったとも言われますが、なぜこれらの都市が選ばれたのかがよく分りません。80年前の尊皇攘夷の水戸浪士が憎かったのか、山本五十六大将の生まれた長岡に怨みがあったのか、富山の漢方薬が憎かったのかも知れません。それどころか原爆投下後の8月10日になっても、花巻のような温泉と宮沢賢治くらいしか思い浮かばない所まで爆撃されています。三国同盟締結時の海軍大臣及川古志郎大将の生家をどうしても破壊したかったのかも知れません。何と8月14日になっても光市、小田原市、秋田市土崎港などが爆撃され多くの市民が命を落としました。
 原爆2つはもちろんのこと、1945年に実施されたこれら無差別爆撃は、戦闘時の激情にかられてのものではなく、アメリカ合衆国の綿密な計画の下で組まれたものであり、飽くことなき大量虐殺への執念によるものだったのです。一般の老若男女55万人(東京新聞調べ)の生命が奪われました。批判は正当です。なお、この無差別爆撃は東京裁判で取り上げられませんでしたが、死者1万1千8百人(中国側発表)の日本軍による重慶爆撃の方は厳しく弾劾されました。
 日本はサンフランシスコ講和条約でこの米軍による国際法違反に対する補償請求権を放棄しましたが、その後原爆投下に対しては「あやまちは二度とくりかえしません」となぜか自らのあやまちのように言い、日本焦土作戦を指導したカーティス・ルメイ司令官には日本政府が勲一等を与えました。自虐国家日本は絶好調なのです。ルメイはベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり「北ベトナムを石器時代に戻してやる」と言い、北爆を推進しました。大将にまで上りつめ退役した後は人種差別的綱領を掲げ副大統領候補として出馬しました。無論、落ちました。
 
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