アラワク族の男たち女たちが、村々から浜辺へ走り出してきて、目をまるくしている。そして、その奇妙な大きな船をもっとよく見ようと、海へ飛びこんだ。クリストファー・コロンブスと部下の兵たちが、剣を帯びて上陸してくるや、彼らは駆けよって一行を歓迎した。コロンブスはのちに自分の航海日誌に、その島の先住民アラワク族についてこう書いている。
〈彼らはわれわれに、オウムや綿の玉や槍をはじめとするさまざまな物をもってきて、ガラスのビーズや呼び鈴と交換した。なんでも気前よく、交換に応じるのだ。彼らは上背があり、体つきはたくましく、顔立ちもりりしい。武器をもっていないだけでなく、武器というものを知らないようだ。というのは、わたしが剣をさし出すと、知らないで刃を握り、自分の手を切ってしまったからだ。彼らには鉄器はないらしく、槍は、植物の茎でできている。彼らはりっぱな召使になるだろう。手勢が50人もあれば、一人残らず服従させて、思いのままにできるにちがいない。〉
 アラワク族が住んでいたのは、バハマ諸島だった。アメリカ大陸の先住民と同じように、客をもてなし、物を分かち合う心を大切にしていた。しかし西ヨーロッパという文明社会から、はじめてアメリカへやってきたコロンブスがもっていたのは、強烈な金銭欲だった。その島に到着するや、彼はアラワク族数人をむりやりとらえて、聞き出そうとした。金はどこだ? それがコロンブスの知りたいことだった。
 コロンブスはスペイン国王と女王を説きふせ、航海の費用を出してもらっていた。ほかのヨーロッパ諸国と同じく、スペインもまた金を探していたのだ。ヨーロッパ人は陸路でインドや東南アジアを訪ねていたため、東インドに金があることは知っていた。そこからは、絹や香辛料といった貴重な物もとれた。しかし、ヨーロッパからアジアまで陸路で旅するのは、長期にわたるうえに危険だったので、ヨーロッパ諸国はアジアへの海路を求めていた。そこでスペインはコロンブスに、いちかばちかかけたのである。
 黄金と香辛料をもち帰れば、コロンブスは利益の10パーセントをもらえる約束になっていた。さらには、あらたに見つけた土地の総督としての地位と、“大洋提督”という称号も与えられるはずだった。そこでコロンブスは、大西洋を横断してアジアに到達した最初のヨーロッパ人になろうと、三隻の船で出発したのだ。
 当時の教養ある人々と同じく、コロンブスは世界はまるい、ということを知っていた。つまり、ヨーロッパから東のはてへ到達するには、西へ向かって航海すればよいはずだと。だが、コロンブスの想像していた世界はひどく狭かったから、何千マイルも先にあるアジアへは、とうていたどり着けなかったろう。ところが、コロンブスはついていた。ヨーロッパからアジアまでの海路を四分の一進んだところで、未知の島に行きあたったのだ。
 ヨーロッパ人に知られている水域を離れてから33日後、コロンブスと部下たちは、海面に漂う木の枝、空に群れる鳥たちを目にした。陸地が近い証拠だ。そして、1492年10月12日、ロドリゴという船員が、月に照らされた白い砂浜を見つけて、大声をあげた。それは、カリブ海に浮かぶバハマ諸島の一つだった。最初に陸地を見つけた者には、高額の賞金が与えられるはずだったが、ロドリゴは手にできなかった。コロンブスが、その前夜に灯りを見たと主張し、報酬を自分のものにしてしまったのである。

 奴隷と黄金を求めて

 コロンブス一行を歓迎した先住民アラワク族は、村落をつくり、農業をいとなんでいた。ヨーロッパ人とはちがい、馬などの役畜は使わず、鉄器ももっていなかった。ところが彼らは、金製の小さな耳飾りをつけていたのだ。
 このつつましい耳飾りこそが、それからの歴史を形づくっていくことになる。コロンブスとインディアンの関係は、コロンブスがアラワク族を捕虜にするという形ではじまった。耳飾りを見たコロンブスは、黄金のありかまで、アラワク族に案内させようと考えたのだ。
 このあとコロンブスは、カリブ海のほかの島々へも立ちよったが、そこには現在ハイチとドミニカ共和国がある、エスパニョーラ島もふくまれていた。コロンブスは1隻の船を浅瀬に乗りあげさせると、その船の木材を使って、ハイチに砦を築いた。そして、39人の乗組員を残し、新大陸発見の知らせをたずさえて、スペインへもどった。残した乗組員たちには、黄金を見つけて蓄えておくようにと命じて。
 スペイン宮廷へ送られたコロンブスの報告書は、事実と作り話の入り混じったものだった。彼はアジアへ到達したと主張し、アラワク族を、インド諸島に住む者、つまり“インド人”と呼んだ。そして、自分の訪ねた島々はまさしく中国の沖合いにあって富にあふれていた、と報告したのだ。
〈エスパニョーラは奇跡の島であります。山あり丘あり、平地も牧草地も肥沃でうるわしく、天然のすばらしい良港があるうえ、大きな川がいく筋も流れ、しかも川の多くは金をふくんでいるのです。香辛料も豊富で、金以外の金属の大きな鉱山もあります。〉
 もしも国王と女王がまたいくらか援助してくれるならば、もう一度航海に出るつもりだ、とコロンブスは続けた。そして今度は、〈国王陛下と女王陛下がご所望になるだけの黄金とご入り用な数の奴隷〉を、スペインまで連れ帰ると書いた。
 この約束のおかげで、コロンブスは一七隻の船と2,100人以上の乗組員を与えられた。2回目の航海(1493年〜96年)の目的ははっきりしていた。奴隷と黄金だ。コロンブス一行はカリブ海の島から島へと移動し、インディアンをつかまえて捕虜にした。しかし、インディアンのあいだでうわさが広まり、もぬけの殻の村がふえていった。ハイチに着いてみると、砦に残していった乗組員は殺されていた。乗組員たちは徒党を組んでは島をうろついて黄金を探し、女性や子どものインディアンを奴隷にしたが、ついにはインディアンと戦いになって、殺されたのだ。
 コロンブスの部下は、黄金を求めてハイチを探し回ったものの、徒労におわった。しかし、からっぽの船でスペインへもどるわけにはいかない。そこで1495年、彼らは大がかりな奴隷狩りを行った。そして、捕虜にした者から500人を選んで、スペインへ送ったのだ。航海の途中で、200人が死んだ。残る300人はなんとかスペインに到着し、地元の教会役員により競りにかけられた。
 コロンブスはのちに、信心深い調子でこう書いている。〈父と子と聖霊の御名において、売れんかぎりの奴隷をさらに送りつづけられんことを。〉
 だが、きわめて多くのインディアンが、監禁中に死んでいった。それでもコロンブスは、航海がもうかることを示さなければならなかった。黄金をどっさり積んだ船でもどる、という約束を破るわけにはいかないのだ。
 コロンブスは、ハイチのどこかに大量の金があると思いこんでいた。そこで、13歳以上のインディアン全員に、金を集めてこい、と命じたのだ。金をもってこられなかった者は、手を切断され、出血多量で命を落とした。
 インディアンは、不可能なことを命じられたのだ。近くにある金といえば、川の流れに混じっている少量の砂金だけだった。そこでインディアンは逃げた。コロンブスとスペイン人たちは犬をけしかけながら追いかけて、彼らを殺した。捕虜にした者は縛り首にするか、火あぶりにした。銃と刀剣、甲冑と馬で武装したスペイン人にはとても太刀打ちできるものではなく、ほどなくアラワク族は毒草で、集団自決しはじめた。スペイン人が黄金を探しはしめた当座、ハイチには25万人のインディアンがいたが、2年後には、殺されたり自決したりして、彼らの数は半分にまでへっていた。
 その後、もはや島から金が出ないとわかるや、スペイン人はインディアンを奴隷にしはじめた。インディアンはスペイン人の広い所有地でむりやり働かされ、虐待されて、1,000人単位で死んでいった。1550年にはアラワク族は500人にまでへり、その100年後、島には1人のアラワク人続もいなくなった。
 
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