世界の歴史において、アメリカ合衆国ほど、人種差別がずっと大問題でありつづけている国はほかにない。人種差別主義というものは、どうやってはじまったのだろう? それをおわらせるにはどうしたらよいのだろうか? 人種問題はこんなふうにも問えるかもしれない――憎しみ合うことなしに、黒人と白人がともに暮らしていくことは可能だろうか?・
 こうした質問に答えるには、歴史が役立ってくれるはずだ。アメリカ大陸へ最初にやってきた白人と黒人についてははっきりしているから、北アメリカでの奴隷制の歴史が、手がかりを与えてくれるにちがいない。
 北アメリカでは、奴隷制が、白人にとって、黒人との一般的な関係になった。と同時に白人は、黒人は自分たちとは同等でない、と思うようにもなった。こうして350年間、人種差別主義のせいで、黒人はアメリカ社会で低い地位に置かれることになる。人種差別とは、黒人は劣っているという考えと、黒人に対する不平等な扱いとが結びついたものである。

 インディアンでも白人入植者でもない人間が必要だった

 最初の白人入植者に起こったあらゆることが、黒人を奴隷として使役する方向へと働いた。植民地バージニアの人々は、1609年から翌年にかけての飢餓期を生き抜いたのち、年々入植者をふやしていた。そのため、生きていくのに不可欠な、食料を育てる労働力が不足してきた。ところが、彼らはトウモロコシ以外のものも育てたいと思っていた。じつはバージニアの入植者は、インディアンからタバコの栽培法を習っており、早くも1617年には、最初の積み荷をイギリスへ送り出していたのだ。タバコは高く売れた。喫煙はばちあたりだ、と考える者もいたが、タバコ農園の所有者たちは、そんな考えを聞き入れてもうかる商売をやめるつもりはなく、イギリスヘタバコを輸出しつづけたのだ。
 しかし、タバコを売り物になるまで育てるのはつらい仕事だ。いったいだれがするのだろう? インディアンにむりじいさせることはできなかった。インディアンのほうが多勢だったし、たとえ銃で彼らを殺したとしても、別のインディアンから報復されることになったからだ。また、インディアンをとらえて、奴隷にすることもできなかった。インディアンは強靭で、挑戦的だったのだ。北アメリカの森は、イギリス人入植者には敵意にあふれる見知らぬ場所だったが、インディアンにとっては知り尽くした庭も同然だった。インディアンはなかなかつかまらなかったし、つかまえてもすぐに逃げられてしまった。
 バージニアの人々は、インディアンを思いどおりにできないことにいら立っていたのだろう。自分たち白人は文明人で、インディアンは野蛮人だと思っていながらも、自分のことは自分でまかなえるインディアンに、ねたましさを感じていたにちがいない。バージニアの奴隷制の研究家でもある歴史家のエドマンド・モーガンは、著作『アメリカの奴隷制とアメリカの自由』のなかで、入植者は自分たちがインディアンほどうまく暮らしていけず、あるいはインディアンを支配できなかったことを恥じていたはずだ、と書いている。
〈自力でやっていけるインディアンは、入植者の進歩的なやり方をあざ笑い、入植者より少ない労力で、よほど豊かな実りを大地からえていた。仲間の中にインディアンと暮らそうと離れる者がではじめると、入植者たちは、もうがまんの限界だ、と感じた。そこで入植者たちはインディアンを殺し、痛めつけ、インディアンの村に火をはなち、トウモロコシ畑を焼き尽くした。それでも、充分なトウモロコシを育てることはできなかったのだ。
 こうしたねたみや怒りといった感情が、なんとしても奴隷を使う立場になりたい、と入植者に考えさせたのだろう。奴隷的労働力として黒人を連れてくることは、バージニアの人々には当然のことと思われたらしい。南北アメリカのほかの植民地では、すでにそうしたことが行われていたからだ。
 南アメリカやカリブ海諸島には、ポルトガルやスペインが支配する、鉱山やサトウキビのプランテーションがあった。奴隷として働かせるため、1619年までに、100万人の黒人がアフリカから運ばれてきていたのだ。そもそも奴隷貿易は、コロンブスのアメリカ到着より50年も前に、10人のアフリカ人がポルトガルへ連れてこられて、売られたときからはじまった。だから1619年に、ジェームズタウンにはじめて20人の黒人が送られてきて、入植者に売り渡されたときには、白人がアフリカ人を奴隷的労働力として考えるようになってから、長い歳月がたっていたのである。
 連れてこられたアフリカ人が無気力状態だったことも、奴隷制をおしすすめる原因となった。インディアンは、自分たちの土地に住んでいた。白人はあらたな大陸へ渡ってきたが、イギリス文化もともにもちこんでいた。しかし黒人は、自分たちの土地からも、文化からも切り離されてしまったのだ。言葉や服装、風習や家族生活といった代々受け継いできたものも、少しずつ奪いとられていた。ただ信じられないほど強い精神力だけで、そうした遺産のいくらかにすがりつくようにして生きていたのだ。
 では、アフリカ人の文明がかんたんに破壊されたのは、ヨーロッパ人の文明より劣っていたからなのだろうか? いや、アフリカ文明は、ヨーロッパ文明と同じぐらい進歩していた。それは一億の人々からなる文明だったのだ。彼らは大都市をつくり、鉄製の道具を使い、農耕や織物、陶器作りや彫刻にひいでていた。16世紀にアフリカを旅したヨーロッパ人は、西アフリカ一帯を支配していたマリ帝国(現マリ共和国が主な領域)や、その中心都市トンブクトゥに感服させられたという。ヨーロッパ諸国がようやく近代国家へと歩みはしめたころ、こうしたアフリカの国々は組織の整った、安定した国を築きあげていたのだ。
 アフリカにも奴隷制は存在した。そして、ヨーロッパ人は自分たちの奴隷貿易を正当化するため、ことあるごとにこの事実をもち出してきた。たしかに、アフリカの奴隷も過酷な生活をしいられていたが、アメリカへ連れていかれた人々にはない、さまざまな権利をもっていた。アメリカの奴隷制は、二つの点で歴史上もっとも残酷な制度だ。まず、もっと金もうけをしたいという果てしない強欲さによって、隆盛の一途をたどっていったということ。さらに、その根本には、白色人種が主人で、黒色人種は奴隷だ、という強い人種的偏見が巣くっていたということだ。この二つの理由のため、アメリカの奴隷は、人間以下の存在とされたのである。
 非人間的な扱いは、すでにアフリカではじまっていた。とらえられた黒人は鎖につながれて海岸まで歩かされ、その距離はときに1,000マイル(約1,600キロ)にもなった。こうした“死の行進”のあいたに、40パーセントの黒人が命を落としたという。そして、なんとか海岸へたどり着いても、売られるまで檻に閉じこめられることになった。
 いよいよ奴隷船に乗せられると、暗い船倉でまたもや互いに鎖でつながれた。一人分のスペースは、棺桶ほどの広さしかなかった。不衛生な船倉にぎゅうぎゅう詰めにされて、窒息死する者、苦しみのあまり海へ身を投げる者まで出た。こうして、航海中に三分の一が死亡したと思われる。それでも奴隷貿易はもうかるため、奴隷商人は黒人たちを魚のように船へ詰めこんだのだ。
 奴隷貿易をさかんに行ったのはまずオランダ人で、次がイギリス人だった。ニューイングランドの入植者のなかにも、この商売に手を染める者が現れた。1637年、入植者による奴隷船第一号が、マサチューセッツから出航した。船倉は横2フィート(約60センチ)縦6フィート(約280センチ)の板で仕切られ、板には奴隷をつなぐための足かせまでついていたという。
 1800年までに、1,000万から1,500万人もの黒人が、南北アメリカ大陸へ運ばれた。わたしたちが、“西洋近代文明のはじまり”と呼んでいる数世紀のあいだに、アフリカ大陸からは、総計で約5,000万の人々が連れ去られ、死亡するか奴隷にされていたのだ。
 植民地アメリカに奴隷制がとり入れられたのは、ジェームズタウンの入植者が、切実に労働力を求めていたためだった。彼らにはインディアンは使えなかったし、白人を働かせることもままならなかった。そこへ、人間の体で金をもうけようとたくらむ奴隷商人により、ますます多くの黒人が送りこまれてきたのだ。おまけに、黒人の多くはとらえられて以来、あまりにも過酷な目にあわされてきたため、無気力状態におちいっていた。こうしたことすべてが原因となり、黒人は奴隷化されたのである。
 
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