なぜ生きる
高森顕徹・監修 明橋大二 伊藤健太郎 
1万年堂出版 

(1) 幸せはいとも簡単に崩れ去る

「出ていって!」
 二階から駆けおりるなり、父をたたきながら叫んだ母の声は、今も耳の底から離れない。立ちすくむ私の目の前を無言で通り過ぎた父は、二度と家には戻りませんでした。小学生だった私が離婚という言葉を知り、悲しい事態を理解したのは数力月がたってからのことです。涙に映っていたものは、なんの前ぶれもなく、幸せがいとも簡単に崩れ去るという現実でした。
 どんなに堅固そうな幸福にも、破局があるのではなかろうか。いつ何がおきるか分からない、そんな不安定な人生に、どんな意味があるのだろうか。

 平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解答が迫られます。
 不幸な運命に負けず、強く生きる体験記が、つづけてベストセラーになりました。
「毎日が訓練と思って耐えなさい、きっと幸せになれるから」「あきらめたら、あかん!」「なんでもいいから、信じた道を歩んでほしい」と訴えています。
 ゆっくりでもいい、一歩ずつ前へ進みなさい……そんなメッセージを、みんな待望しているようだ。

 しかし、どこに向かって歩くのか、ゴールは一体どこなのか、明らかにされているのでしょうか。

●どんな行動にも目的があります。人生にも……

 どんな行動にも目的があります。たとえば、タクシーに乗った時。いかに無口な人でも、まず行く先を告げるでしょう。目的地がわからねば、どこへ走ればよいか困るからです。むやみに車を走らせたら、時間とお金が無駄になります。
「なんて勉強しているの?」と聞かれたら、「明日、試験があるから」「資格を取るため」などと答えるでしょう。「どこへ行くの?」と聞かれれば、「買い物」「気分転換に散歩」と言うように、行動には目的があるのです。
 では、「なぜ生きるの?」と聞かれたら、なんと答えればよいのでしょうか。
 生きることは大変です。受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、老いや病魔とも闘わねばなりません。人間関係のストレスに悩まされ、事故や災害、会社の倒産など、不測の事態も襲ってきます。
 これらの苦難を乗り越えて、なぜ生きねばならぬのか。もっとも大事な「生きる目的が示されないまま、ただ苦しみに負けず「生きよ」「がんばれ」「死ぬな」の連呼は、ゴールなき円形トラックをまわりつづけるランナーに、鞭打つようなものでしょう。

●毎日が、決まった行動のくり返しと気づく

(中略)

●なぜ生きるかがわかれば、ひとは苦悩すら探し求める

 生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と“生きる力”が湧いてくるのです。
 ニーチェは『道徳の系譜』に、なぜ生きるかがわかれば、「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。方向さえ正しければ、速く走るほど早く目的地に着きますから、損をする苦労は一つもありません。人生の目的成就のためならば、時間、体力、お金をどれだけ使っても、百パーセントそれらは生かされます。使い捨てにはならないのです。
 人生に苦しみの波は絶えませんが、生きる目的を知った人の苦労は、必ず報われる苦労です。人生は素晴らしい、と言う人もいれば、何をやってもむなしい、と言う人もいます。
 真の「人生の目的」を知るか、否かの違いでしょう。

●生きることイコール良いこと。これが大原則

(中略)

●つらい思いをして病魔と闘うのは、幸福になるため

 医療の現場では、命を延ばそうと懸命な努力がつづけられています。日本初の脳死移植は三大学から医師が集まり、氷詰めにした臓器をヘリコプターや飛行機で空輸。とくに心臓は、4時間以内に体内に戻さなければならないので、1分1秒を争う戦いです。脳死判定から術後の管理まで、費用はしめて1千万円を超えるといわれます。
 やがて必ず消えゆく命、そうまで延ばして、何をするのでしょうか? 心臓移植を受けた男性が、何をしたいかと記者に聞かれて、「ビールを飲んで、ナイターを観たい」と答えています。多くの人の善意で渡米し、移植手術に成功した大が、仕事もせずギャンブルに明け暮れ、周囲を落胆させました。「寄付金を出しだのはバカみたい」支援者が憤慨したのもわかります。
 命が延びたことは良いことなのに、なぜか釈然としないのは、延びた命の目的が、曖昧模糊(あいまいもこ)になっているからではないでしょうか。臓器提供者の意思の確認や、プライバシーの保護、脳死の判定基準など、二次的問題ばかりが取り上げられて、それらの根底にある「臓器移植してまでなぜ生きるのか」という確認が、少しもなされてはいないようです。
 つらい思いをして病魔と闘う目的は、ただ生きることではなく、幸福になることでしょう。
「もしあの医療で命長らえることがなかったら、この幸せにはなれなかった」と生命の歓喜を得てこそ、真に医学が生かされるのではないでしょうか。

 世の中ただ「生きよ、生きよ」「がんばって生きよ」の合唱で、「苦しくとも生きねばならぬ理由は何か」誰も考えず、知ろうともせず、問題にされることもありません。
 こんな不可解事があるでしょうか。
 
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