「白人スタンダード」という
新たなる侵略
清水馨八郎・著 祥伝社 

 モーゼの「十戒」と、教育勅語との決定的違い

 キリスト教の教えはモーゼの十戒を基本に展開する宗教のようである。それはモーゼがシナイ山で神の教えとして大衆に呼びかけた10の戒めである。その第1の戒めが「殺す勿れ」であり、第2が「盗む勿れ」、第3が「騙す勿れ」、第四が「姦淫する勿れ」と続いている。このように、いかにも動物段階にある野蛮人の戒めというしかない。
 日本は千数百年前の聖徳太子の十七条憲法でも、第1条は“和を以て貴しとなす”から始まっている。殺すな盗むな姦淫するな、などとは一言も書いていない。これらは人の道として当然のこととして、諭す必要がなかったからだ。
 明治以後の教育の基本であった「教育勅語」では「忠孝。夫婦相和し、朋友相信じ。恭倹己を持し、博愛衆に及ぼす」といった高い徳目が並んでいた。私たちは戦前から殺すな、盗むな、騙すななど修身で教わったことがない。教えなくても人として分かりきっていたからである。
 このことから日本人は2,000年前の古代から、高い道徳律を守る高貴な人間になっていたことが分かる。
 対する中近東やヨーロッパ人など世界の民族がいかに野蛮で掠奪、殺戮、闘争に明け暮れていたかは、十戒がよく示している。
 モーゼの十戒の中で私は「騙すな」という教えが最も重要だと考えている。殺すこと、盗むことは動物すべてが平気でやっているが、智恵を使って騙すという行為は、人間のみの特権である。人間の人間たる所以は信義を重んずる、つまり約束を守り、義に背かないことである。これは動物界にない霊長類としての人間が神から与えられた特権である。ところが西洋白人たちは、この特権を逆手にとって、巧みにトリックを駆使して先住民、異民族を騙しつづけてきた。彼らが世界の覇権支配を全うすることができたのも、このためである。その例は近代史にいくらでもある。
 コルテスのアステカ王国の征服も、ピサロのインカ帝国の制圧も、見事な騙しの成果であった。インカの国王はピサロ軍も人間として信義を重んずるものと安心して、お互い非武装で対面しようと約束した。丸腰で集まった国王の軍隊を見届けるや、ひそかに隠れていたピサロ軍が躍り出て、広場に集まった多数の貴族や兵士を含む約1,000人をあっと言う間に殺害してしまった。このような騙しの連続で、白人たちは巨大な帝国をまたたく間に滅亡させてしまったのである。
 アメリカ先住民のインディアンを騙し、広い全土をあっと言う間に奪いとったのも、同様であった。メイフラワー号で移民してきた最初期の植民者の飢えと苦難を救ってくれたのは、友好的で人間的なインディアンであった。トウモロコシやタバコの栽培も教えてくれた。だが、やがて白人はそれらの恩を忘れ、たちまち仇で返したのである。人間の善意や約束を逆手にとる戦法である。
 インディアンと白人との間に結ばれた条約、協定、約束ごとは300を超えていたが、そのほとんどが反故(ほご)にされて、白人の都合のよいように利用された。約束して安心させて、それを破るのは彼らの常套手段であった。
 先述のとおり、アメリカが戦争を仕掛ける手口もすべて「○○を忘れるな」の騙しの手口であった。ルーズベルトが日本をハワイにおびき出したのも、同じ手口であった。
 また終戦で日本にポツダム宣言を認めさせたが、その内容は軍隊のみの武装解除を定めたものであった。ところがいったん日本がこれに従って剣を置いたとたん、今度は日本の政治、経済、文化まで支配する内容に切り換えてしまった。彼らは敵をいったん武装解除させてしまえば、後は何をしてもよいと考えるのだ。
 終戦直後、日ソ不可侵条約を破って、満州や千島、樺太に侵入してきたソ連の手もまさにこれで、銃を置かせた後はどんな乱暴狼藉でもできると考える彼らの真骨頂であった。白人は、力がすべての野蛮人なのである。
 
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