「白人スタンダード」という
新たなる侵略
清水馨八郎・著 祥伝社 

 洗脳の解除なしには、改憲も始まらない

 東照公遺訓に「己を責めて、人を責めるな」の教えがある。これは日本民族の内側では高邁な教えであるが、国外では通用しない。国外では。人を見たら泥棒と思わなければならないからだ。狩猟牧畜を主とする大陸の民は罠や囮(おとり)を仕掛け、動物を騙すのが日常で、騙されるほうが愚かで悪いのだと考える。植物を相手とする農耕民族の日本人とは、性情が正反対である。
 マッカーサーはさらに、日本人の“沈黙は金”“言挙げせぬ国”をモットーとする素直で従順の美徳を悪用し、自尊、自省の「自責」を通り越して「自虐」に追いこむ思想戦を展開した。日本国民の戦争の怨みを、米国のマッカーサーではなく、自国の指導者や日本の文化伝統に向けるよう仕向けたのである。
 大東亜戦争における明らかな加害者、侵略者の米国にとって、敵の日本が仇討ちの概念や怨みを持たず、己自身の内を責めていることほど安心なことはない。戦後日本人がもっぱら謝罪病、加害妄想狂に陥っている姿こそ、米国にとって好都合なことこの上ないのだ。
 東京裁判で日本無罪論を唱えたインドのパール博士が、戦後広島の原爆慰霊碑の碑文に「過ちは繰り返しません」とあるのを見て、「これはホワイトハウスの前に建てるべきだ。被害者がいくら誓っても平和はこない。加害者側が反省しなければ意味がない」と述べた話は有名である。
 同様に、日本の各都市が「平和都市宣言」など高らかに掲げて誇っているが、これもアベコベで、ナンセンスである。平和を乱した加害者側の白人が反省しなければ意味がないからだ。被害者の日本人がいかに平和を願っても平和はこないのだ。
 イギリスの歴史学者トインビーは、文明や国家の滅亡は外敵からではなく、内敵によるものとの歴史哲学を述べている。まさに今の日本は四人組の思想統制と国民の自虐で、内側からメルトダウン(溶解)し、亡び去ろうとしている。
 最近の日本は国家の目標がなく、方向性を失い、独立国家の態をなさなくなっている。これでは溶解する以外にない。日本は独立国家存立の基本権を失っているからである。それは@戦争権(開戦権、交戦権)、A歴史の自己決定権、B自主憲法決定権の基本的な三権喪失してしまったからだ。中でも自国の歴史を記述するのに近隣諸国にお伺いを立て、検定してもらっている姿は、とても独立国といえないものである。
 また戦争権を憲法九条で放棄しているが、今時そんな非常識な国は世界にない。四人組は九条こそ平和憲法の神髄だ、理想の憲法だとテコでもこれを放そうとしない。「国破れて憲法あり」とイソップ物語にでも残してもらって、後世世界から笑われる愚を犯すつもりであろうか。
 私は以前から、日本の戦後体制は、アンデルセンの「裸の王様」そっくりだと指摘してきた。二人のペテン師の機織師とは、マッカーサーと反日的日本人のことだ。王様に着せたという新衣裳とは、憲法のことだ。
 騙されたとも知らず愚かな王様は、これぞ理想の平和の着物だと得意になって、着物のお披露目をする。その行列を見て、正直で素直な子供が、「王様は裸だ」と叫んだ。それを聞いた、王様も家来たちも大衆も、騙されていたことに初めて気がつくという寓話である。
 ところが日本の政府である王様は、50年以上経ってもそのペテンに気がついていない。この着物を着ていれば平和が保てると本気で思って疑わない。国防に関して言えば、日本はまさに裸の王様なのだ。
 マッカーサーが日本を騙すために着せた憲法だから、それは憲法といえない。戦後の学者、文化人らの憲法論議を見ていると、王様の裸に気がつかず、何条を直せばよいとか、王様の着物の色と形といい申し分ないが、ここを改めればもっとよいなどと論争に明け暮れている。裸だと言ってしまえば一度に解決するのに、騙された結果の着物の色や形を論じ合うのは、ナンセンスである。
 
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