カルマ的きずな

 未来の人生でも、私たちはお互いにまた知り合えるのだろうか? 友人たちがいまと同じ顔かたちをしていないのなら、どうやって彼らを見分けることができるのだろう? 夫とは、前世でも知り合っていたのだろうか?
 友人や親戚は、前世でも知り合いだった場合が多い。現世でのあなたの夫は、前世であなたの兄弟、あるいはおじだったかもしれない。
 母親は、別の人生では姉妹になることもある。人々のきずなは、理性や感情を通り越して続く場合がある。それらは、カルマによるものなのだ。ただしそのきずなは、ニューエイジ映画の中で描写されているような、ロマンチックで、理想的で、愛情深い人間関係ばかりだとは限らない。

 サンドラの場合

 3週間ほどピーターとデートを重ねた結果、サンドラは彼とのつき合いを終わらせることにした。そこで、やさしく、だがきっぱりと、もうこのままつき合いを続けていく気がないということを彼に伝えたのだ。それを聞いたとき、彼のほうは特に乱暴な反応は見せなかった。ただ、彼女のあとをどこまでもつけていくようになったのだ。この種の行動は、強迫観念やそのほかの心理的な問題から起こされる場合もあるが、彼の場合、それはカルマによる行動だということがわかった。
 普段は物腰柔らかい人間なのだが、サンドラに関してだけ、ピーターは平常心を失ってしまうのだった。彼は2年間にわたって、彼女をつけ回した。肉体的な暴力で彼女を脅すようなことは決してしなかったものの、彼の存在はサンドラをいらつかせた。彼女の友人がピーターに話をつけようとしても、彼は、自分にとって「サンドラを守るのが仕事なんだ。彼女をひとりにはしておけない」と説明するだけだった。どんな説得を試みても、彼女を守るのが自分の使命であるという彼の信念を揺るがすことはできなかった。サンドラにけがを負わせるようなことはしなかったので、警察が介入するわけにもいかなかった。
 サンドラは、半ばパニック状態で私のもとを訪れ、アドバイスを求めてきた。彼女が目の前にすわったとき、ギリシアにおける前世の情景が、非常にはっきりと見えてきた。ピーターには会ったこともなければ彼の写真を見たこともなかったが、私は彼の容姿を正確に言い当てることができた。ギリシアでピーターは王軍の護衛兵を務めており、サンドラは君主の娘だった。そして彼女を守るのがピーターの任務だったのだが、彼の手抜かりから、娘は殺されてしまう。これが彼にとって、いまだに忘れられないほどの悲痛と罪の意識となっているのだ。
 サンドラは、私は少し気が変なのではないかと言わんばかりの目つきでこちらを見つめていた。「たいしたものだわ。でも私は、いまどう対処できるかってことを知りたいんですけど?」
 自分は過去の人生経験に反応しているんだということをピーターにわからせなければならない、と私は彼女に告げた。もし私の解釈が正しければ、彼の潜在意識が、自分の使命は終わったのだとすぐさま悟ってくれるはずだった。
 サンドラがピーターを連れてきたので、私は彼に先ほどの話をした。彼は礼儀正しく耳を傾けてくれた。そしてその面会のあと、彼がもうつけてこなくなったと言って、サンドラがうれしそうに報告してきた。あれから2年の歳月が流れているが、ピーターはその後一度も現れていない。彼の潜在意識下の記憶が、過去の人生の解釈を受け入れたのだ。自分の任務を失敗に終わらせたという彼の罪の意識が解放されたということだ。そのおかげで、ピーターも、サンドラも、自由を手に入れることができた。
 私にこの種の情報が与えられるというのは、めずらしいことだ。私たちは、自分たちの行動の責任を逃れる手段としてカルマを利用しないよう、十分注意を払わなければならない。カルマを無視するわけにはいかないが、だからと言って自分たちの問題を合理的および感情的な観点から見ようとしないのはだめだ。
 人間は、同じ外見に生まれ変わるということはまずない。人間性とアストラル体は、霊魂がこの世に戻る準備ができたとき消滅するものだ。霊魂に必要な教訓しだいで、性も変わる。あるときは男性のからだが必要となるし、またあるときは女性のからだに入らなければならないことがある。当然ながら、もしあなたのカルマがある霊魂の母親になることであれば、あなたは女性でなければならないわけだ。あるいは、偉大なるテノール歌手になるカルマであれば、男性のからだが必要になる。その点は、常識で決まる。
 ときとして、ある特定の霊魂が何度も男性としての人生を過ごしたあと、今度は女性になる必要が生じることもある。そうなると移行がやっかいになる場合がでてくる。過去の人生の記憶が数多く残っていると、その人物がとても男っぽくなる可能性があるのだ。これは、逆の場合も同じだ。男らしさに欠ける男性の場合、過去に10回ほど女性としての人生を送ってきたのかもしれない。そのために男性のからだへの移行がしっくりこないということがあるのだ。
 また、出会ったとき、お互いにずっと昔から知り合っていたような感覚に陥る人たちがいる。そういうときは、前世でも知り合っており、カルマによって再会することが許されたという場合が多い。

 ゲールとエリックの場合

 ゲールとエリックは、イタリアを旅行中に知り合った。両者とも、ひとり旅だった。彼らはヴェネツィアで何度も出くわした。3度目に出くわしたとき、一緒に夕食をとろうということになった。二人とも、子供のときからイタリアに引きつけられていたという。どちらも、学校でイタリア語を勉強し、いとも簡単に習得している。ゲールは、ニューヨークで上映されるイタリア映画はすべて見ていたし、食事はイタリア料理に限っていた。エリックの父親は、エリックが「故郷」と呼ぶイタリアに帰るまでは大学なんかいけないと言い張る彼に負けて、その旅行を彼にプレゼントしたのだ。彼らは、かつて一度も訪れたことのないひとつの国の何から何までが、とても親しみやすいものであることに、とても驚いた。それに二人とも、同じ夢を繰り返し見ていた。ヴェネツィアで、見つけることのできないだれかをさがしもとめている夢だ。彼らは夢にまで見た国イタリアでの残りの旅行を、ともに過ごした。ニューヨークに戻ると、二人は結婚し、学業を終え、イタリアへ移り住んだのだ。現在エリックはイタリアの新聞社でライターとして働いているし、ゲールは美術館に務めている。私は、この二人ほど幸せそうな人間には出会ったことがない。これはカルマだろうか? まず間違いなくそうだろう!
 私たちはみな、数多くの人生を歩んでおり、その道のりで大勢の人間と出会っている。カルマ的な理由があるときは、私たちの霊魂は再び出会うようになっているのだ。
 たとえば、だれかを悲しませたり傷つけたりした場合、あなたはその人物にもう一度対面しなければならない。あるいはだれかに愛情や喜びを与えた場合、今度は自分にそれが与えられる。あなたの高次の自我には、すべてがわかっている。私たち個人の人生をつくり出しているのは、私たちの中のその部分なのだ。この神聖なる自我が、自由を勝ち得るためにこの世へと繰り返し戻ってくる。天国で、私たちの行動に裁決を下す別の神というものは存在しない。私たちの行動が、自身に裁決を下すのだ。
 カルマと輪廻転生は、相手がだれであろうが、どんな宗教であろうが関係ない。あなたがキリスト教徒でも、ユダヤ教徒でも、ヒンドゥー教徒でも、イスラム教徒でも、仏教徒でも、あるいはそのほかのどの宗教に属していようとも、関係ないのだ。大切なのは、あなたがどう生きるかということ。死後の世界であなたに与えられる場所は、現世におけるあなたの行動いかんで決まるのだ。人種、性、宗教の違いなどで分け隔てられることはない。死後の世界を信じることが絶対に必要だとは言わないが、信じることが救いになるはずだ。信じていれば、移行がより簡単に行えるようになる。それに、それを承知している人間のほうが、より多くを経験できる。信じる人は、移行のあとほとんど休む必要もない。わくわくしすぎて、休むどころではないのだ。だが信じていない人は、調整のための時間が必要だ。多くの場合、いわば眠った状態のまま一定の時間を過ごすことになる。これは決して悪いことではないが、自分を満たしてくれるようなものでもない。たとえば、映画の最中に居眠りをした人が、十分休養はとれたものの、映画鑑賞の経験を逃したことになるのと同じだ。
 それぞれの人生で、私たちは自身を進歩させる数多くの経験を与えられる。人生のそれぞれの瞬間を十分に味わうというのは、エキサイティングだし、心を浮き立たせてくれる。これは、物質界でも霊界でも同じだ。ではこのへんでそろそろ、霊界を訪れてみることにしよう。
 
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