ひふみ神示(日月神示)@
なわ・ふみひとの超解釈

 霊人と語るのは危ないぞ

●外にあるもの内にあるぞ。(黄金の巻・第8帖)

●自分の中にあるから近寄って来るのであるぞ。厭なこと起こって来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ。(黄金の巻・第66帖)

●世界がそなたに映っているのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。(黄金の巻・第71帖)

 「外にあるもの」とは、「私たちが五感を通じてこの人生で体験していること」です。「内」とは「奥の心」つまり仏教でいうところの「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」の領域をさしています。一般的には「潜在意識」と理解しておけばよいでしょう。
  私たちが体験している「現実」は、潜在意識の中身が反映されたものであるということです。もし不愉快な「現実」を体験させられているとすれは、それは私たちの心の中に、そのような「現実」を起こす要因が含まれているということです。
 私流の表現をするならば、「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって、心の磁石が外の世界の「現実」を引き寄せて来るという真理を述べています。「笑う門には福来たる」「泣き面に蜂」などの諺がそのことを表現しています。
 「世界が映る」も「映る=体験する」という意味で、同じことを述べています。

●霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。(黄金の巻・第18帖) 

●霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。
(黄金の巻・第50帖)

●悪神憑かりたれば、自分では偉い神様がうつりていると信じ込むものぞ。可哀想なれど、それも己の天狗からぞ。取り違いからぞ。(黄金の巻・第57帖)

 正式な修法に則った修行をしていない普通の人が、霊的存在(一般的に神様や高級神霊の名を語りますが、最近は進化した宇宙人を装う場合も多いようです)と交信することの危険性を述べています。「危ない」と警告される意味は、霊人(=異次元の存在)と通信をしていると次第に波長が合ってきて、やがて完全憑依される恐れがあるということです。その結果、極端な事例としては、自分ではまったく意識しないまま異常な行動(殺人など)に走るといったことが起こります。
  最近では霊界通信をもとに作られたサイトやプログもよく見かけますが、それらは普通の人では審神(さにわ)が難しいので、十分な注意が必要です。

●己の行できておらんと、人の悪口言わなならんことになるぞ。(黄金の巻・第19帖)

 「身・口・意」をコントロールするのが行(=身魂磨き)です。他人の悪口を言わなければならないのは、身魂磨きができていない証拠だということです。

●国々、所々、村々、家々、みな何なりとしてめぐりだけの借銭済まし致しくれよ。(黄金の巻・第19帖)

 めぐり(=カルマ)は自分だけのものとは限りません。自分が属している集団――家庭はもちろん、勤務先や市町村、国、民族――が生み出した善くないカルマもきれいに借銭済まし(=清算)してしまわないと、みろくの世へのアセンションができないということです。


●悪も善も、もう隠れるところなくなるぞ。(黄金の巻・第30帖)

 カルマが清算されるということは、隠されていた秘密が人々(=利害関係者)の前に明らかにされることを意味しています。今日、政治や行政、企業などが行なってきたさまざまな不正や不祥事(年金問題や食品の原料の偽装表示など)が暴かれつつあるのは、その表れとみてよいでしょう。

●めぐりないもの一人もこの世にはおらん。(黄金の巻・第37帖)

 たとえ聖人君子のように見える人でも、やはりカルマは背負っているのです。

●この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪がこの世にうつる。(黄金の巻・第38帖)

 カルマが生まれるメカニズムを表現しています。私たちが発信している善くない「身・口・意」は幽界に届き、そこからまためぐりとなってこの世に戻ってくるということです。

●平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ。数で決めるなと申してあろうがな。群集心理とは一時的の邪霊の憑きものぞ。(黄金の巻・第56帖)

  「多数決の論理」は間違いであるということは、拙著『2012年の黙示録』でも力説しています。マスコミに誘導された大衆には、一時的に邪霊が憑依していると見るべきです。2005年夏の「小泉フィーバー」や、2007年の参院選における「安倍バッシング騒ぎ」も、邪霊に誘導されたものと見て間違いないでしょう。今後も「二大政党化」を旗印に、多数決の論理を追求するわが国の政治はますます不安定な状態が続き、結果として、この国はたいへん悲惨な事態に導かれていくと思われます。

●世を捨て、肉を離れて天国近しとするは邪教であるぞ。合わせ鏡であるから、片輪となっては天国に行かれん道理じゃ。迷信であるぞ。(黄金の巻・第59帖)

●天国に行く人、この世でも天国にいるぞ。(黄金の巻・第60帖)

●死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮らす人天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ。
(黄金の巻・第75帖)

 この世は大切な「身魂磨き」の場ですから、この世での生活をおろそかにする考え方は間違っているということです。この世での厳しい「現実」に負けて、死ねば天国に行けると思って自ら命を断つ人は、死後も同じような「現実」に直面するのです。そもそも現在の心の状態がこの世での「現実」を創り出しているのですから、肉体を捨ててあの世に行けば、同種の「現実」がさらに過酷さを増して表れることになります。あの世では、心の状態がこの世の数十倍、数百倍のスケールで展開されるということを、新約聖書の中でもイエスが「からし種」や「パン種」にたとえて説明しています。
 
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