ひふみ神示(日月神示)B
なわ・ふみひとの超解釈

 人は皆、かみかかっているのであるぞ

●人間は皆、かみかかっているのであるぞ。かみかかっていないもの一人もおらんのじゃ。…(中略)…霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。心を肉体として住んでいるのじゃ。その中に住んでいるのじゃ。(白銀の巻・第6帖)

●人間の言うかみかかりとは幽界のカミかかりじゃ。ろくなことないのじゃ。かみかかりにも、かみかかりと判らんかみかかり結構じゃなあ。
(白銀の巻・第6帖)


●神は人間の想念のなかに入っているのじゃ。想念が一致するから神の想念が人間に伝わるのぞ。人間の言葉となって人間に現れる。言葉は神であるが、人間でもあるぞ。自分が自分に語るのであるぞ。この道理よく心得なされよ。(黒鉄の巻・第27帖)

●人間は肉体をもっている間でも、その霊は霊の国に住んでおり、霊の霊は、霊の霊の世界に住んでいるのであるぞ。この道理よくわきまえよ。(黒鉄の巻・第33帖)

  この項につきましては当サイトにアップしております
死後の世界と魂の成長』(ジョージ・W・ミーク著/宗教心理出版)が参考になると思いますので、以下に引用しておきます。神示と特に関係の深い最後の部分を赤い文字にして強調しました。

 憑依(ひょうい)――悪魔や霊が人間にのりうつったり、外部からその人間に働きかけて、一定の行為をさせること。
 霊の支配――何ものかに支配されている状態(たとえば、自分以外の人間、悪魔、情熱、観念など)。ある人間のふだんの人格が他の人格と取り替えられた状態。

 人間の心や魂は、何らかの原因で死を迎えたとき、ごく自然になめらかにその肉体から離れますので、その人自身も何が起こったのか全く気づかない、という場合がよくあるのです。死んだとき、多くの人びと(とくに霊的な事柄について知識のない人)は、自分が別な存在の次元に移ったということに全く気がつかないのです。
 彼らは実際は、ある一つの領域にいるのです。今日ではその領域をアストラル界と呼んでいます。この領域は、さらにいくつかの層(レベル)に分かれています。私たちは肉体を脱ぎ捨てたあと、たいていは3日以内ぐらいで、「自分はアストラル界の中の一つの層にいる」ということに気がつきます。この場合、アストラル界の中のどの高さの層に住むようになるかは、地上で生活していたとき、その人間がどういう行為をしたかによって決まります。
 何層にも分かれたアストラル界の最下層は、この地上の世界に浸透していて、私たちの住んでいる世界と重なり合っています。私たちは、私たちの感覚器官でとらえられたこの世界が、いかにも堅固で、物体が充ち満ちているように思っていますが、それは私たちの感覚器官の能力が不完全なためにそう思われるだけだということを、現代の科学は示しました。私たちの肉体も99.99999パーセント以上は何もない空間であることがわかっています。ですから、肉体を離れた霊が私たちと同じ空間に住んでいられるはずがないという考え方を捨ててみてください。
生きている1人の人間の肉体に、何人もの死んだ人間の霊が入り込むことだってできるのです。
 新約聖書には、ある1人の男にとりついたたくさんの「悪霊たち」を、イエスがその男の肉体から追い出して、豚の群れに乗り移らせたという有名な話(マルコによる福音書)があります

 ――『死後の世界と魂の成長』(ジョージ・W・ミーク著/宗教心理出版)


●たとえいかなる現在も、その現在を祝福せねばならん。喜びせねばならん。(黒鉄の巻・第1帖)

●一切に向かって涙せよ。ざんげせよ。一切を受け入れ、一切を感謝せよ。一切が自分であるぞ。一切が喜びであるぞ。(黒鉄の巻・第2帖))

 
「1回だけの人生だから、できるだけ楽しまなくちゃ損」という考えの人には理解できない内容かも知れません。しかしながら、人生の目的が「自らの魂を磨くこと(身魂磨き)」であることを自覚するならば、自分に降りかかるあらゆる出来事はすべて神様が与えてくださった大切な教材ということですから、感謝し、祝福する必要があるということです。
 「いまは苦しいけど、これを乗り越えればいつかは幸せになるだろうから我慢しよう」という考え方は必ずしも正しくないということを述べています。苦しく感じられるような状況であっても、その“いま”がすべてなのです。“いまの状態”に感謝できなければ、これから訪れる“未来”も、常に“いま”の連続でしかないからです。いま自分の周りで起こっているすべての出来事に感謝できるようになることが、大切な身魂磨きだということです。
 
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