ひふみ神示(日月神示)H
なわ・ふみひとの超解釈

 天変地異は神の怒りではない  [TOP]

●神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。(扶桑の巻・第8帖)

 終末において私たちが直面すると思われる天変地異は、決して神の怒りではないと述べられています。では、なぜ天変地異が必要なのか。それは「新しい世界に生まれ変わるための産みの苦しみ」なのです。
 地球がこの物質世界を卒業するために必ず越えないといけない峠というもので、それを恐れて避けるようとする心が間違いなのです。そのような心、つまり「楽をしよう、苦しいことを避けよう」という心こそ卒業しないといけないものなのです。もろちん、苦しむことに意味があるのではなく、「産みの苦しみ」をできるだけ小さくして安産になるようにと、自らの身魂磨きを怠らないことが必要だ、というのが日月神示の神様の一貫した教えとなっています。


何事が起こって来ても、まず喜んで迎えねばならんぞ。近づいてくるのは呼び寄せたからじゃ。こんないやな、きたないものはごめんじゃ、と申す人民もあるなれど、それは皆己の心の写しではないか。内にないものが外から近寄る道理ないのじゃ。どんなものでも喜んで迎えると喜びとなる仕組み。よく会得せよ。(扶桑の巻・第10帖)

 この神示と同じ内容は日月神示の中でたびたび繰り返されています。それをあえてここで取り上げましたのは、前後の内容との関連で改めて「カルマの法則」を確認していただきたいからです。
 私たち個人のカルマであれば、自らの身魂磨きによって嬉し嬉しの出来事ばかりを呼び寄せるようになりそうなものですが、現実はそうでもありません。毎日のテレビや新聞を賑わしている異常な犯罪の数々や、政界や企業において続発している不正事件などを見ていますと、とてもこの国に地上天国が近づいているとは思えません。
 「いやなもの、きたないもの」が近寄るのは、私たちの先祖やあるいは日本民族そのものがつくり出したカルマが現象化しているからと見るべきでしょう。国のカルマは、その国を構成している国民が等しく背負うことになるのです。もちろん、人類のカルマは地球環境の破壊といった形で、世界中の人たちに影響を及ぼしていきます。「自分が身魂を磨けばすべてハッピー」とならないところが、この世界の奥の深いところです。「人類の連帯責任」と言ってもよいでしょう。
 大切なことは、どんなことが起こっても不満に思わず、「これが身魂磨きのために必要なことなのだ」と喜んで受け止めるということです。
「喜んで迎えると喜びとなる」仕組みを、早く会得したいものです。
 
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