神の発見
心霊第二の門

桑原啓善・著 土屋書店 1988年刊
 
霊魂の存在を知ることの大切さ

  霊魂の存在を知らないための悲劇を一つお話しておきましょう。
  長野県の15歳になる女子中学生が自殺しました。「教師なんて信用できません。教えてくれるものは本音と建て前の使い分けくらい」とノートに書き残した、この多感な少女は、また「もうすぐ苦しみから解放されるということだけが楽しみです」と遺書を残し、首を吊ったのです。
  この少女にとって現世は虚偽に満ちた苦であって、死こそはその苦から解放してくれるただ一つの楽しみであったのです。何となれば、死とは無になることだと思っていたからです。いったいこの少女を誰が殺したのでしょうか? それは、死を無になることだと教えた、教師であり、親であり、この間違った文明そのものです。

  それでは、霊魂の存在さえ知っていれば、人は誰でも幸せになるのでしょうか? いえ、まだもう一つのことが大切です。正しい死後の霊魂の姿、この事実を神霊研究で学んでおくことが肝要です。
  自殺者の霊魂は、死後長い間、暗い境域で苦しまなければならないということ。それは、生命という火花を、自らの手で消したのですから、人間の最大の罪です。
  現世は苦と申しますが、他界も、実に素晴らしい天界のような所があるかと思えば、逆に現世以下の地獄の様相の所もあるからです。そのどちらに入るかは、この現世での私たちの生活と心構えが決めることです。私たちは他界の姿も正しく知っておかねばなりません。

 皆さんは、何のためにここへ来たか  [TOP]

  スプーン曲げ「超能力少年」が麻薬パーティーを開いて、懲役8カ月になったという記事が新聞に載っていました。
  異常な超能力があるということは、一種の天才です。天才がなぜ犯罪とかかわりあいになるのでしょうか。天才を天才にしているのは、背後に強力に働いている霊魂です。問題はこの霊魂が善霊か邪霊かということです。
  スプーン曲げのような物理的な現象には、えてして低級な自然霊や動物霊のようなものが働く場合があります。そのスプーン曲げも、世のため人のためという目的なら、けっして低級な動物霊などはかかりません。仮に動物霊が直接働いても、その背後に必ず科学的な立場をとる人霊が働いて監督をしています。
  しかし、もし単に見せびらかして誇示したり、人をびっくりさせることだけが目的なら、つまり心霊現象を興味本位や何らかの利得のために行なうのなら、その現象がどんなに素晴らしくても、いずれ天才の末路は転落に終わります。それは、その低級霊によって身を持ち崩されてしまうからです。
  我々は、その心霊現象の素晴らしさだけに目を奪われてはなりません。その霊媒や天才が、どんな目的や動機でそれを行なっているかによって、その価値を判断することが大切です。
  同じように、私たちが心霊に興味を持つとき、どんな目的でかかわるかが最も肝要なところです。もし興味本位や、利得を目的に心霊の門をくぐるなら、待っていましたとばかり、邪霊の餌食になって翻弄されます。一時的に病気が治るとか、事業がうまくいったとしても、それで盲信させたあげく、最後は見事に背負い投げを食わせて転落させます。邪霊はそのように人を翻弄し、身を破滅させることをもって楽しみとしているからです。

 物神支配の時代  [TOP]

  400年ほど前、フランシス・ベーコンという近代科学の祖が「知は力なり」と言いました。これが物神の誕生です。つまり、「科学の法則は幸福を生み出す力である」という意味です。ここに、人間の幸福は物質によって得られるという考え方が隠されているのです。それは当時経済的に興隆しつつあった西欧全般の人々の考え方でした。
  それから、世の中は急速に物が豊かになり、便利になったのです。その意味で、物質文明の救いの神は科学です。19世紀の半ば、科学が機械に利用され始めた頃が、人類における物神支配時代の始まりで、第二次世界大戦以後が物神の支配確立時代です。
  この物神とは、「お金さえあれば、物さえあれば」という考えです。その考えが、我々の中に仮住まいしている物神の声です。この神は現実に存在します。人の念は生き物です。間違った念でも、さながら霊そのもののように地上をさまよい、人に感応し、人を動かし、人の運命を変えます。
  この物神が今、世界中をのし歩き、多数の人類の中に巣くい、わがもの顔で地上に君臨しています。これは人間が創り出したものとはいえ、生き物です。現実に人類と世界と地球を壊す力をもった神です。

 危機は来る  [TOP]

  現実的に見ますと、科学技術文明の発展で人類は死にかけています。核戦争の危機、公害による大地・海・大気の汚染、生態系の破壊、つまり地球の死が刻一刻と進行しています。
  化学薬品・農薬・食品添加物による人体への影響、つまり体の異常や奇形児の出産が進行していることは事実です。科学技術文明は輝かしい物質の享楽の裏に、人体を確実に破壊しつつあります。このままなら、人類の滅亡は時間の問題です。
  滅亡はもう決定的といえるほどです。それは目に見えない世界、霊界や幽界において、地球の破壊現象が発生しているということです。人間世界のこと、地球上のことは、まず霊界に、次いで幽界に原因が発生し、これが現界に表面化するということです。幽界で人類の破壊現象が始まったら、もうとうてい地上の破壊は食い止められません。
  目下、幽界では邪悪霊の跋扈が目に余るほどになっています。その原因は、人類の精神が悪化したからです。なぜ悪化したかというと、唯物主義化したということです。どうしたら得をするか、金儲けできるか、かっこいいか、権力が握れるか、ただそれだけで現在の人類の大勢は動いています。私のいう物神崇拝です。
  幽界の邪悪霊は、こういう人間の退廃堕落をことのほか喜びます。それが彼らの活力源だからです。彼らも私たちと同じように栄養をとって生きています。彼らの栄養は心の糧です。人間も霊ですから、食物のほかに心の栄養が必要なのです。幽界の霊は、この心の糧をエサとして、元気を出したり、不足すると意気消沈したりするのです。
  幽界の邪悪霊の最大の好物はなんでしょうか? 人間の邪心です。殺意とか、いじめとか、嘘とか。また退廃堕落の心です。よろめきとか、欲得とか、怠惰とか、虚飾とか。
  今の世の中をご覧ください。そういうものでいっぱいではありませんか。これが科学技術文明の産み落とした唯物主義というものです。

  幽界の邪霊たちは、今たっぷりとこのご馳走にありついてご満悦です。元気旺盛で活躍しています。彼らのお気に入りは殺人です。人をたぶらかして悪の道に引きずり込むことです。退廃・犯罪・自殺・事故・テロ・戦争・天変地異――これらは彼らの好んでいるものです。
  なぜ青少年の暴力や自殺が多いのでしょうか。なぜ中高年も含めた不倫が横行するのでしょうか。なぜテロが後を絶たないのでしょうか。なぜ事故が頻発するのでしょうか。これらの背後に、そのように人間の心に働きかけて、そういう犯罪を犯させて喜んでいる邪悪な霊たちがいるからです。邪悪霊は自然現象にも影響を及ぼします。つまり天変地異にまで干渉するということです。

 人間は着物に包まれた神子  [TOP]

  人間とは何かについて述べてみます。
  人間とは、神の火花である霊と、肉体および目に見えない幽体・霊体・本体から成り立っています。肉体・幽体・霊体・本体の4つを総合して媒体と言います。
  タマネギを想像してください。一番外側の皮が肉体です。その皮を1枚めくって出てくる次の皮が幽体です。もう1枚めくると霊体が出てきます。まためくると本体が出てきます。本体の中にタマネギの芯があります。それが霊(神の火花・神の子・人間の本体)です。
  さて、タマネギに譬えましたが、本当は少し違うのです。皮のように重なっているわけではなく、幽体はスポンジに水が浸透するように肉体の中に浸透しているのです。スポンジが肉体で、水が幽体です。その幽体は肉体とまったく同じ形をして、肉体に浸透しています。
  次に、霊体は幽体に浸透して、これは卵形をしています。さらに本体は霊体に浸透して、これも卵形をしています。そして、霊体と本体の大きさは、精神の未発達の人は小さいのですが、発達した人は大きく肉体の外に張り出して光輝を放っています。
  さて、「浸透している」とはどういうことでしょう。スポンジが水を含むということは、スポンジの粗い粒子の間に、細かい水の粒子が入り込むということです。つまり、肉体の粒子よりも、幽体のほうが細かい粒子でできているということです。同じように、霊体は幽体よりも精妙な粒子でできており、本体はさらに精妙な粒子でできているのです。
  4つの媒体にはそれぞれ役割があるのです。肉体は欲望(食欲や性欲などの本能)の媒体。幽体は感情(怒り、恨み、憎しみ、悲しみ等)の媒体。霊体は理性の媒体。本体は英知の媒体。

 2つの「私」  [TOP]

  さて、「私」とは何でしょう。本当の「私」は、霊(神の子)です。ところが現実の「私」は欲望やいやな感情を持った鬼子です。どっちがホンモノでしょうか。
  マイヤースはその優れた霊界通信『永遠の大道』の中で、人間には2つの「私」があると述べています。1つは上魂(大我)で、いわば上方からの光。他は下魂(小我)で、現実の自我意識です。そして、普通の人は下魂だけで生活しており、稀に上魂の光が射す程度だと付け加えています。つまり、下魂とは欲望や感情の固まりである日常の「私」のことです。まれに上魂から射す光とは、良心の声、英知の声と思えばよいでしょう。
  では、なぜ下魂つまり現実の鬼子の「私」の心が生まれるのでしょう。マイヤースは下魂を「数世代にわたる記憶の累計」と言っています。過去の経験の積み重ねが、現在の「私」の性向や人柄を作り、それが現実の「私」の心に作用するのです。
  実は、あなたの幽体も霊体も本体も、完全無欠な記憶のコンピューターなのです。あなたの日常の行為、話した言葉、思ったこと、考えたことのいっさいを、完璧に記録します。幽体は感情に関することを、霊体は理性的な行為や判断を、本体は良心の声、無私の犠牲的な愛の行為を記録します。
  「壁に耳あり」と申しますが、あなた自身が完全無欠なコンピューターをいつも背負って歩いているのです。死後、人は生前の行為によって行くべき世界が決定されます。平均的な人は常夏の国サマーランドへ、邪悪な人はいわゆる地獄へ、優れた人は高級霊界へ、などという形で。
  この裁定はみじんも狂いなく公正です。それは人間の媒体(肉体・幽体・霊体・本体)に、生前の記録が細大漏らさず残っているからです。媒体の記録簿には、本人が腹の底で何を考えていたかまで、ちゃんと克明に記録されていますから、この腹の底の本心までずばり裁定されます。

 「私」はカルマの結晶体  [TOP]

  人間は生まれてから今日までの記録簿だと申しました。ここでマイヤースを思い出してください。小我とは「数世代にわたる記憶の累計」と言ってました。そうです、いくつもの前世の記録のコンピューターが人間なのです。
  人間は生まれ変わるのです。このことについては、マイヤース『永遠の大道』、アラン・カーデック『霊の書』、『シルバー・バーチ霊言』、『ホワイト・イーグル霊言』など、世界で最も有力な霊界通信の多くが承認しています。再生論も、全面的再生論と部分的再生論の2つがありますが、ここでは単に「人間は再生する」ということで話を進めます。
  ということで、人間は何回、何十回、何百回かの再生をしているでしょう。現在のあなたは、そのすべての過去の経験の記録を背負ったコンピューターです。
  ホワイト・イーグルの言葉を引用しますと、「現在のあなたの肉体を作ったのはあなた自身です」ということになります。ホワイト・イーグルの言葉をさらに引用します。
  「人間とは、日ごと夜ごと、自己を刻む者。1日に自己に印を付けぬ日はなし」
  「地上生活中に、みなさんは自分の諸媒体を作りつつある」
  「皆さんは、再生したときに地上で表現するあなたを、諸媒体を、いま作りつつある」
  「来世のあなたを作っているのは現在のあなた。現在のあなたの肉体を創ったのはあなた自身である」
  あなたの肉体も幽体も霊体も本体も、みんな前世のあなたが作ったものです。どうしてそういうことになるのでしょうか。人間は死ぬとあの世に行きます。そのときは肉体を脱いだだけで、幽体・霊体・本体は着けたままです。
  ホワイト・イーグルはこれを次のように説明します。
  「このとき、本体の中に3粒の大切な種子がしまわれる。これを我らは不滅の種原子と呼ぶ。この種原子こそ、再生したときに入る媒体を作るための準備なのである」と。
  死ぬと、生前の肉体・幽体・霊体の経験を、ひと粒ずつのエキスとした原子が本体のなかに内蔵されるのです。そしてこれが再生するとき、新しい肉体・幽体・霊体の種子となるのです。ですから、新生児の3つの媒体は、前世の経験のすべてを背負った形で生まれてくるのです。
  現在の我々の媒体は、過去の幾多の人生を1つに集めたカルマ(業)の結晶体なのです。この3粒の種原子が本体の中に内蔵されるのは、本体は作り変えられることのない霊の皮膚だからです。肉体・幽体・霊体の3つは、再生のたびに取り替えられる、霊の着物です。

  霊は、再生するとき、次の人生の運命のだいたいのコースを選択します。それは自分にいちばん欠けている試練を学習するためにです。たとえば、次の人生で病身となることで何かを学びたいとか、武術を通じて自分を鍛えてみたいとか。
  そして、自分に相応しい両親を選び、それに相応しい遺伝子を両親の中から選び取ります。ですから、肉体の材料はもらっても、その原型は本人そのものです。これがホワイト・イーグルの言う「肉体は自分が作った」という意味です。
  以上の内容で、人間がどんなに複雑な生き物か想像できましたか。「私」がいまここにあるのは、偶然に両親から生まれたからではないのです。カルマの殻を背負って、何世代もかけて生き続けている何者かなのです。
  さてさて、神は何のためにこんなことをなさったのでしょうか。人間に精巧無比の記憶コンピューターを背負わせて、死んでも死んでも生き返らせて、そのたびに前世のカルマのツケを背中のコンピューターに加えていかれるのです。何のためでしょうか。
  もう一度、ホワイト・イーグルの言葉で回答としましょう。「過去のカルマは病気の形で現れることもあるし、また、生活の境遇の形で現れることもある」と。
  病気とか、貧窮とか、争いとか、事故とか、人間の不幸災厄の源にカルマがあるのです。では、カルマ(業)とは何でしょうか。それは人間の不心得、つまり悪い感情とか欲望とかです。つまり、幽体の汚れ、染みです。これが人生百般、一切災厄不幸の原因なのです。
  私たちは生まれ変わり死に変わり、前世で消し損なった欲望や感情の染みを、幽体に再生して生まれてきます。それを一生かけてせっせと浄化すべく、努力もするのですが、片方ではどんどん新しい染みを加えていきます。この積み重ねられた感情と欲望の集積がカルマ(業)です。ですから、あなたのいっさいの不幸・災い・不運の原因はあなたの感情と欲望からきているのです。これを消し去ってしまえば、もうあなたにはいっさいの不幸は起こりません。ですから、正直で心がけの良い人は幸福となり、邪悪で心がけの悪い人は不幸になる、ということです。
  ですが、ここで誰もがひっかかるのです。「あんなに良い人なのに、なぜ病気ばかりするのだろう。不運続きなのだろう」と。また、反対に「あんな悪い奴が頑健で、うまい汁を吸ったりするのは腑に落ちない」と。
  これもやはりカルマなのです。人間の幸不幸は、生まれてから後に行なった不心得が原因になりますが、もう一つ、前世からのカルマがあります。
  私たちは、次の人生でどのカルマを学習するかを、再生する前に自分で選んで生まれてきます。そして、それに相応しい両親、環境を選択します。生まれてくると、そんなことはすっかり忘れてしまいますから、誰しも白紙の未来をもったようになるのです。
  良い人なのに病弱で不運続きの人の中には、こういう種類の人たちがいます。この一見不幸そうに見える運命から逃げず、克服するとき、その人はカルマを征服し、生まれてきた意義を全うするのです。
  反対に、邪悪なのに頑健で、うまい汁を吸っているように見える人間は、良いといってもほんの一時です。その邪悪な日常によって新たなカルマを生み、必ずいつか健康も失われ、生活も大穴をあけてしまいます。一時良いように見えたのは、その人にとって試練だったのに、見事にひっかかってしまって、新しい大きなカルマを背負い込んでしまうのです。
  人は外見だけで幸不幸ははかれません。現在をどう生きるかが大切です。人の織りなす運命は、たしかにカルマの結果ですが、その人の試練に最も相応しいように選択されています。それが良いか悪いかは、その人が運命にどう対処したかで決まります。

  もう一度考えてみましょう。神は何のために、私たちにコンピューターを取り付け、そのコンピューターに過去のカルマのすべてを記録させたのでしょうか。それは、カルマから不幸災厄を生み出させるためですね。とすれば、神は意地悪で人間をいじめているのでしょうか。そうです。そのことに間違いはなさそうです。
  ですが、もし神がそうしなかったらどうなるでしょう。どんなに欲望や悪い感情を持っても、それが記録されず、カルマなどいっさい作られなかったら‥‥。これは天国でしょうか。したい放題にできて、何の罰もないのですから‥‥。
  はたしてそうでしょうか。それでは最も欲が深く、最もずる賢くて、最も力の強い者がしたい放題をして、他のすべてを支配するでしょう。皆さんはそのような世界を望まれますか。これこそ地獄ではないでしょうか。
  ですから、私たちのしたことがすべて記録されることは幸せなことなのです。それが集積されてカルマを作り、カルマから必ず不幸が生まれるのも、大変幸せなことなのです。
  もし不幸の痛みがなければ、私たちはこの不幸から逃れようとしないでしょう。ということは、カルマを積み重ねても平気だと言うことです。いくらでも欲望や悪い感情を発揮してもよいことになります。これはやはり地獄、悪魔の支配する世界です。
  だから、痛いことは幸せなことなのです。病気・貧困・争い・災禍、これらが辛くて耐え難い悲しみであることは、感謝すべきことなのです。そうでなければ、人間は怠け者ですから、きっとその不幸から逃れようとすることはないでしょう。
  神が私たちにカルマの注射をなさる意味がわかっていただけたでしょうか。神は実に偉大です。深慮です。私たちを自由にしておいて、うるさいことは何もおっしゃらず、毎日黙ってカルマ注射を打っていらっしゃる。それだけで、わがままで怠け者の私たちが、飛び上がるように驚いて、不幸から逃れようと、その原因である欲望や悪い感情を発見してそれをきれいにしようと、日夜努力するようになるのです。
  こうして、私たちは神に近づきます。一歩一歩、神の子である自分に気づき、それを表現できるようになります。

 人の媒体は通信機器  [TOP]

  ホワイト・イーグルはこう述べています。「我々は受信局であり、発信局である。我々は目に見えない他界の霊の思想に反応するだけでなく、現世の他人の波動にも反応している」と。
  肉体が受信・発信の通信機器であることはわかります。言葉は耳で聞きます。目で人の振る舞いを見て、その思想をキャッチします。口で自分の思いを発信します。目や手足のジェスチュアだって、自分の意志を表現します。立派な通信機器です。
  ところがホワイト・イーグルは、肉体以外の幽体・霊体・本体が、人の思想を受信したり、霊と反応し合っていると言うのです。霊能者だけでなく人間はすべてその媒体で霊とも人とも交信していると言うのです。
  それはなぜかというと、思想とは電波と同じように波動だからです。宇宙とは波動と言ってよいようです。ご存じのように、物質の源は原子です。原子の中心に原子核があり、その周囲を電子という微粒子が回っています。ところが、この電子は粒子ですが波でもあるのです。つまり、私たちの肉体はもちろん、石や花、机や椅子なども、それを構成している粒子は波動でもあるのです。A・J・デヴィスのような霊格者の霊眼には、物質の原子の姿やその動きがありありと見えます。

  地震は大地を伝わる波ですね。海の波は水を伝わる波、音は空気を伝わる波です。これらはいずれも土や水、空気といった物質の中を伝わる波です。ところが、真空を伝わる波動があります。これを電磁波と言います。
  電磁波には、波長の粗いものから極めて精妙なものまで、いろいろの段階があります。一番波長の粗いものが電波です。これにも長波、中破(ラジオに使用)、短波、もっと精妙な超短波(テレビ放送に使用)、マイクロ波(レーダーに使用)と、波長の段階があります。
  波長がさらに精妙になると、光になります。光にも段階がいろいろあって、波長の粗いものから赤外線、可視光線(人の目に見えているのは、ほんのわずかなこの部分だけです)、その上に紫外線とあり、もっと精妙になると放射線となります。レントゲン線、ガンマー線などです。
  このように、宇宙に存在するエネルギーは電波、光、放射線のように、すべて波動、それも粗から精妙へと数限りない段階を持つ波です。この波がもっと精妙になっていくと、何になるのでしょうか。それはまだ科学では分かっていません。
  科学では、未発見の思想エネルギーというものがあると考えられています。そして、心霊研究では、この「思想」が波動であると分かっています。霊とは思想です。神とは霊の本源、思想と言えます。そして、私たちは霊、神の子、思想です。波動なのです。また私たちは想念とも言えます。したがって、互いにこの想念を受け取り、また発信するために媒体が備わっています。肉体が音波(耳)や可視光線(目)の受信機であったように、もっと精妙な思想の波を送受信するための媒体が、幽体・霊体・本体なのです。
  思想も電磁波と同じように、粗雑な波長(欲望や悪い感情など)の媒体が幽体、もっと精妙な波長(理知)が霊体、さらに精妙な人間至高の波長(利他的な愛や奉仕の精神)の媒体が本体というふうに、段階が分かれています。

 人間の恐ろしさ、不可解さ  [TOP]

  人間の媒体が通信機器だということがおわかりいただけたでしょうか。ホワイト・イーグルは、この通信機器は人とも霊とも交信できると言いました。A・E・パウエルは『神智学大要』で次のように警告しています。
  「我々は道を歩いている時、実は他人の想念の海の中を歩いているのである。我々の心が一時空白になると、他人の想念が我々の中を通り抜けていく」と。
  またアラン・カーデックの『霊の書』はこう教えています。
  「(問)霊は私どもの思想や行為に影響を与えますか」
  「(答)その影響は諸君が想像するよりも大きい。諸君の思想も行為も、これを動かしているのは霊たちであるから」。
  これがどんなに恐ろしいことか分かりますか。あなたは24時間つけっ放しのテレビジョンなのです。夜寝ているときも、あなたというテレビには他の人間と霊からの思想の放送がどんどん入ってきます。それも世界ネットワーク放送です。世界中の見知らぬ人からの思想がどんどん入ってくるのです。しかも、それは幽界テレビでもあるのです。霊たちからの放送も容赦なく入ってきます。
  ところが、こうして霊や他の人からの思想放送が絶え間なく入ってくるのですが、本人はそれが外からのものだとは一向に気がつかないのです。それをまったく自分の思想、自分の考えだと思っているのです。
  たとえば、ふとお酒を飲みたくなることがありますね。あるいは、急にどこかに行ってみたくなったり、ある考えにとりつかれて深刻になったりします。そのような場合はたいてい外からの影響でそうなったのです。ところが本人は、自分がそう思ったのだ、それは自分の思想、自分の気持ちだと考えて疑いません。これは何と恐ろしいことではありませんか。
  もしそれがはっきり外からの思想であることが分かるなら、つまり、それを話す人、ささやく人の姿が見えるなら、誰しもそれを警戒します。おそらく、誘惑や危険な思想を送る霊や人は、醜悪な顔、邪悪な人相の人物でしょうから、誰しもそんな人や霊のささやきは拒絶するはずです。
  ところが現実はそうではないのです。いかにももっともらしく、自分の気持ち、自分の考えとして感じるのですから、その言いなりになってしまうのです。私たちの日常は、いかに多くの誘惑に取り囲まれていることでしょう。そして、いかに多くの邪霊、いかに多くの邪悪な人間の言いなりになっていることでしょう。
  「私」とは、無数の他者、無数の霊との複合物なのです。マイヤースはその霊界通信『個人的存在の彼方』の中で、こう指摘しています。
  「人間は、自分がそう思っているほどに、思考や個性の独立性を持たない。我々が相互不可侵であると信じている境界の部分は交錯している」と。
  これは科学の教えない人間の一大神秘です。人類がこの事実を知らない間は、正しい文明、正しい人間の進歩もあり得ないでしょう。
  しかし、人間とはそんなに頼りない存在ではないのです。なぜかというと、人間が通信機器であるということは、テレビやラジオと同じように、こちらでチャンネルやダイヤルを合わせなければ、あちらからの通信は絶対に入ってこないのです。どの通信、どの霊からの放送を取り入れるかは、あなたが全部決定しているのです。
  あなたに四六時中入ってくる思想は、どこの誰からのものか、幽界のどの霊からのものかはわかりません。しかし、その人、その霊に波長を合わせたのはあなたです。この意味で、あなたに入ってくるいっさいの思想は、あなたの代弁者です。ですから、あなたの思想はやはりあなたのもの。あなたはやはり「私」であり、個我であり、主体者です。ただし、今までの常識や科学が知っているものよりも、「私」とはもっと広大なもの、多くの他者と多くの霊たちにまで広がりをもつ何者かです。
  そして、もう一つ大事な真理を記憶に留めてください。あなたは広大な宇宙の中から、すなわち無数にある霊や人の思想の中から、あなたの波長に合うものだけを選択して受け入れているということです。あなたはある意味で宇宙テレビです。ただし、あなたの持つ一定の波長でのみ選択して受信している1つのチャンネルのテレビです。
  そして、あなたの波長とは、あなたの幽体が持っている波長です。幽体はその浄化の程度によって、それを構成する資質が粗雑なものから精妙なものへと変わります。そして、それらの資質はその精粗に応じてそれぞれの波長を持っています。人間は波長的存在なのです。そして「私」を構成しているのは「波長の法則」です。
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 霊が人に及ぼす影響  [TOP]

  それでは具体的に、霊が人に及ぼす影響を示します。
  前章でも見ましたように(註:前章のこの部分は省略してます)、Aさんは道に落ちていた財布を10回拾って10回ともネコババした100%の悪人とします。Bさんは5回届けて5回着服した50%ずつの善悪の普通の人、Cさんは10回とも届けた100%の善人とします。
  ここでまた財布を拾いました。Cさんは必ず届けます。それは本人の資質に波長が合って守護霊が働くため、迷うことなく届け出るのです。
  Aさんは必ず着服します。これも本人の資質です。しかし、この資質に同調して邪悪霊が感応し、たとえば「バクチをやれ!」と誘惑します。バクチは、勝っても負けても邪悪霊は本人をそそのかして深入りさせ、サラ金に手を出させます。やがてにっちもさっちもいかなくなり、家族も巻き添えにして、ついに一家心中。邪悪霊は面白がって手を叩き、悦に入ってAさんの元を去ります。これが邪悪霊の働きです。自業自得とはいえ、財布を拾ったという一見幸運に見えることが、邪悪霊を呼び込み、本人だけでなく家族までも地獄に突き落とします。邪悪霊は人の不幸を喜びます。虎視眈々とそのチャンスを狙っています。そして、しばしばこのような悲劇の背景には、家にまつわる因縁霊が働いています。
  この例の場合にも、一家心中を計画したのは因縁霊であり、この計画を面白がり、同調して、バクチをそそのかしてサラ金に手を出させたのは邪悪霊でしょう。しかし、この邪悪霊や因縁霊に波長を合わせたのは、元はといえば本人の持っている波長、すなわち100%悪のそのチャンネルなのです。
  次はBさん、つまり善悪50%ずつをもった普通の人です。財布を拾うと、一瞬迷うでしょう。守護霊のささやき(良心の声)に従えば問題ないのです。しかし、たまたま面白くないことがあったりしてムシャクシャしていると、その波長の乱れに乗じて邪霊がささやきかけます。一時の心の乱れが、Bさんの専用チャンネルをはみ出して、低い波動を発するのです。
  邪霊は、「どうだ、一杯やらないか?」と誘いかけます。ムシャクシャしていたBさんは「そうだ、酒は心の憂さの捨てどころ」とばかり、ついフラフラとその気になります。
  いつもなら、ある程度でいい心持ちになってご帰還というところですが、この時はそうはいきません。邪霊が感応しているからです。本人もムシャクシャしていたので深酒になります。Bさんの家に因縁霊があれば、その因縁霊はこのチャンスを見逃しません。Bさんをタチの悪い酒場へと誘い出します。そこには性悪な邪悪霊がゴロゴロしています。たちまちBさんに憑依して、トコトンまで飲ませたあげく、喧嘩をさせます。自己を失っているBさんはうまく利用されて、ナイフで相手を刺します。悪霊たちはキャッキャッと喜んでBさんの身体から離れます。我に返ったBさんは、事態を知って呆然自失となるのです。
  50%の悪しかもたないBさんが、なぜ100%の大罪を犯すことになったのでしょうか。これをさせたのは邪悪霊です。また、その背後で糸を引いていたのは因縁霊です。そして、その引き金となったのは、Bさんの一時的な心の迷いです。50%の悪の波長でも、100%の悪に増幅されるのです。ちょうどテレビやラジオの音量が増幅されるのと同じことです。そして、それをさせるのが霊魂の働きです。また、Bさんの殺人の裏には、殺した相手の家の因縁霊も、働いていたと思われます。つまり、Bさんは相手の家の因縁霊が狙っていた殺人の代行までさせられたのです。

  さて、ここにDさんという80%の善人がいたとします。20%の悪しか持たない人ということです。Dさんの周りには、めったに不幸な出来事は起こりません。しかし、いまBさんが仕事のことか家庭のことで悩みを持っていたとします。Dさんの家にまつわる因縁霊はこのチャンスを見逃しません。Bさんに働きかけて、ふと散歩に行く気にさせます。そして、魔の踏切まで誘い出します。こんな所には交通事故死した地縛霊がウヨウヨいます。悩み事で心がうつろになっているDさんに地縛霊が憑依して、同じような形で交通事故死させることになります。
  20%の悪しか持たない善人のBさんが、なぜ交通事故死という100%の不幸な目に遭うのでしょうか。波長の法則では割り切れないものがあるのでしょうか。いえ、これもやはり波長の法則です。Dさんの一時的な心の苦悩が、因縁霊に波長を合わせ、それに地縛霊が絡まったのです。霊の感応憑依は、少しの波長の乱れをもとらえて、これを増幅させようとします。ここに人間通信機の恐ろしさがあります。

  次に、Eさんという人物を想定します。Eさんは50%ずつの善悪の普通の人とします。彼は父親の死後、父親と同じ胃癌になり、性格も父親そっくりになりました。これは亡父の霊の感応です。
  何人も兄弟がいる中で、Eさんはいちばん父親の死を悲しんでいました。父親もEさんをいちばん可愛がっていたようです。この相互の愛着が憑依の引き金となりました。おかしなことです。愛している子供に父親が憑依して、なぜ病気で苦しめるのでしょう。
  父親はEさんを苦しめる意図は毛頭ありません。でも、現実に苦しめることになっているのは、父親が亡霊だからです。亡霊とは、自分が死んだことに気づかぬため、行くべき所へ行けないで迷っている霊(成仏してない霊)のことです。
  彼らは半ば夢うつつの中で、自分が生前もっていた病気を後生大事に抱え、苦しい苦しいと思っているのです。肉体はもうないのに、死んだと思っていないので、病苦はついてまわるのです。しかも、霊は想念のかたまりですから、生前よりも何倍も苦しく感じるのです。こうして、亡霊たちはその苦しさから逃れたい一心で助けを求めます。
  いま、Eさんが父親の死を悲しみ、波長を合わせますと、父親はその波長の中に飛び込みEさんに憑依します。こうして父親の病気は可愛い息子に移り、性格まで移るのです。世の中の少なからざる数の病気には、こういう祖先霊の感応憑依があります。
  もしEさんが心霊の原理に目覚めており、いたずらに父親の死を悲しまず、むしろ父親の霊の進歩向上を願う気持ちを持つなら、これが父親の目を開かせ、自己の死を悟らせることになります。すると、他界での行くべき世界が見えてきて、父親を救うことになるのです。死を悲しむ念は低い粗雑な波長、死者の向上を願う念は高級な愛の波長です。波長が万事を決めるのです。
  さて、亡霊のことを地縛霊とも称します。行くべき所へ行かず、地上に留まったままだからです。地縛霊は大まかに分けて2種類あります。1つは、Eさんの父親のように、死後も自分の死を自覚できないため、霊界が見えなくて地上に留まっているものです。他は、地上に特殊な目的や執念があるため、地上に留まるもの。いわゆる狭義の地縛霊です。
  前者は、だいたい生前に唯物的な生活を送った人たちです。彼らは霊的精神的なものの価値を認めないで、その目は地上に向いたままです。だからあの世が見えず地縛霊となります。彼らは周りが暗いところにいるだけでなく、生前の苦しみが増幅されますので、誰でもいいから自分に心を向けてくれる者に頼ろうと、助けを求めて、愛する者にでも憑依します。
  後者は、因縁霊のように復讐の怨念を持つ者です。殺された怒りから、自分も人を殺そうと待ちかまえている地縛霊。もう一度地上生活をしたいと執着している霊。特定の財産とか人物とか場所とかに執着があって、地縛となっている霊。死んだら無になると思って自殺したのに、まだ意識があるので半狂乱になっている自殺霊。‥‥などなどです。これらの霊は目的を持っているので、意図的に憑依し、その災厄も大きいのです。

  以上、霊が人間に及ぼす影響がおわかりになりましたか。善悪50%の普通人Bさんが、殺人という悪100%の犯罪を犯しました。邪悪霊と因縁霊の作用でした。同じく、善悪50%の普通人Eさんは、亡霊の憑依によって不幸100%ともいえる胃癌にかかりました。善80%の善人Dさんは、思いもよらず交通事故死という災厄を受けました。地縛霊の憑依によるものでした。
  波長の法則からいくと、それぞれが不幸100%ともいうべき波長の影響を受けるはずがないのに、どうしてでしょうか?
  解答はこういうことです。Bさんは何かで心がクシャクシャしていました。Eさんは父親の死をひどく悲しんでいました。Dさんは仕事のことで心に苦悩を持っていました。これらはすべて低い波長です。この一時的な低い波長が邪霊との感応を引き起こしたのです。
  では、善悪50%や善80%の人がどうしてこんなに低い波長になったのでしょうか。それはカルマ(業)です。人は一生の間に、今世で蒔いた種、過去世で蒔いた種の集積であるカルマを背負っています。このカルマは人生のある箇所で何らかの問題(試練)となって現れます。
  それを奉仕の気持ちや愛の態度で処理すれば、進歩の階段になり、何の問題も残しません。しかし、それを自分本位で処理すれば、苦悩となり、心のクシャクシャとなり、悲しみとなります。それらは低い波長ですから、低級霊とつながり、その憑依を受けるのです。因縁霊も地縛霊も邪悪霊も、このような人の心の乱れを待っているのです。
  人は平常はその人専用のチャンネルで安定しているのですが、何か事が起こった時に、つまり試練に遭った時に、その対応の仕方で一時的に波長が変わります。たとえば、仮にこの世界に10のチャンネルがあるとして、人はそれぞれ自分に合ったチャンネルを持った専用テレビなのですが、10のチャンネルは誰にでもついているのです。そして、試練を受けたときの態度によって、一時的に他のチャンネルに切り替わります。もちろん、自分の幽体にその波動と同じ波長が存在しなければ、絶対に感応はしません。これは科学的な法則と同じです。
  つまり、Bさん、Dさん、Eさんには、憑依された霊と波長の合う資質が、幽体にわずかにしろ存在していたということです。ですから、私たちは日々魂の浄化に努めて、粗雑な資質を幽体から消滅させること、精妙な資質による幽体に仕上げておくこと、これが低級霊の憑依を受けない基本原則です。
  もう一つ、同じ波長であっても、同じ霊の干渉を受けても、憑依される人と憑依されない人がいます。マイヤースは「意志の弱い人、無気力な者は、地縛霊に扉を開いているのと同じだ」と言っています。つまり、お人好しなだけでは駄目なのです。何事にも自分の意志をちゃんと持てる人でなければなりません。意志を持つとは、「自我」である自分の霊が、自分の脳、自分の肉体をちゃんと統御しているということです。この統御が緩むと、その間に他の霊が割り込んで憑依するのです。
  この点、霊媒体質の人とは、幽体が体質的に肉体から離れやすい人です。そのため、幽体の奥にある霊が、自分の肉体を統御できなくなるのです。ですから、霊媒体質の人は先天的に憑依されやすいのです。こういう人は、人一倍、魂の浄化に努めなければ大変危険だと言えます。
  さて、最後にひとこと。Bさん、Dさん、Eさんが憑依されたのは、一時の心の乱れのためでした。それが邪霊を引き寄せて、憑依の引き金になったのです。このように人の心は波動を発して、他の霊を引き寄せます。いえ、引き寄せるだけではなく、逆に人間の心の波動は、霊魂の作用と同じように、他の人間に対してもさまざまな影響を及ぼすのです。
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 人間の念が及ぼす影響  [TOP]

  今の科学では、人間は肉体だと考えています。そして、この肉体が、まさか電波のように念波を放っているとは夢にも思いません。しかし、人は霊なのです。死後の世界にいる霊と同じように、霊(=想念)であることには変わりはありません。
  先ほどの事例のように霊と人が結びつくということは、霊も人も波動を発しているということです。霊からの波動が人間に届くように、人から発信された波動も霊に届くから、霊が人に引き寄せられ、作用を及ぼしたりするのです。現代科学は、人間が思想の波動を発している霊であるという事実を全く知りません。せいぜい、精神身体医学で、自分の心の状態が肉体に影響を与えるといった程度しかわかっていないのです。
  とんでもない。人間の心の波動は、霊の作用と全く同じなのです。他者に憑依したり、自分にだって憑依して、さまざまな影響を及ぼしています。これから恐ろしい念の作用についてお話します。
  人は世界ネットワークの24時間テレビだと言いました。そうです。幽界放送の受信機なのです。しかし、それと全く同じように、発信機でもあるのです。
  あなたは寝ても覚めても、いつも何かを思い、考えています。つまり四六時中、想念を発信しているのです。そのあなたの想念が発信機なのです。
  想念は、あなたの周囲へ波動となって発信されています。その想念はどこまで届くかと申しますと、念の強さによって違いますが、地球の裏側はもちろん、幽界、霊界、神界にだって届くのです。スピードは高速以上です。無時間と言ってもよいでしょう。
  私たちはこのような人々の想念を常に受け取っています。ですから、人混みの中を歩く時は、想念の海に浸っているということです。「朱に交われば赤くなる」と言いますが、環境のもつ雰囲気の力とは、想像以上に、その環境を構成する念波によって左右されています。
  霊が人に感応するように、波長が合えば、ある人の波動は他のある人によってキャッチされます。それを受け取った人は、ふと同様の想念を抱き、同じ考えを持ちます。その時、その想念は強化され、再発信されて、波長の合った人にキャッチされるのです。これが念がキャッチボールによって強化される姿です。
  この世界は、多くの人々が念の キャッチボールをしている集団だということができます。私たちは想念の兄弟です。時流とか、流行とか、世論とかは、こうして作られます。
  しかし、念波は一度そこを通ると、波長の合う人には影響を与えますが、波長の合わない人のところは素通りして、どこか宇宙の果てで消えてしまいます。仮に波長が合っても、その人が何か別のことに心を集中していれば、受信されずに通り過ぎてしまいます。そのときはまったく影響はないのです。
  ところが、この影響は狂いなくあるのです。それは念波によってではなく、念体による影響です。人が想念の波すなわち念波を発するのですが、その一部は念体となるのです。念体とは、想念がその周りに霊の幽体と同じような幽質をまといつけたものです。ですから、形や色を持ちます。その形も色も想念の内容によってさまざまです。天使のようなものもあれば、鬼のようなものもあり、奇妙きてれつなものから、幾何学的な模様のようなものまで、種々雑多です。
  人が何かを考えると、それが念体を形成するのですから、世界は念体の洪水です。その数は霊の数より多いと言えます。ただし、霊のように永久に残るわけではありません。弱い念体はほんの数秒、強烈な念体は何年でも、中には何百年でも生き続けるのがあります。
  この念体は、寝ぼけたお化けのようなものではありません。強い念体は独立して、霊と全く同じ作用をします。たとえば、母親の強い純粋な愛念は、守護霊と同様の働きをします。息子や娘の危急に応じて作用します。
  ある時、外地にいた息子が旅に出ようとした時、母親が出現してその旅立ちを中止するように言いました。気になった息子は旅に出るのをやめたのですが、その乗る予定だった列車は転覆事故を起こしたのでした。そこに出現したのは母親本人(幽体離脱した母の幽体)ではないのです。母親は一向にそんなことに気づいていないのですから。それは母親の愛念の念体が物質化したものです。
  また、甲という人が乙という人を呪ったとします。甲はその後反省して呪いを解きました。しかし、呪いの念体はすでに独立していて、確実に乙に作用するのです。人間の想念とは恐ろしいものです。念体があるかぎり、反省しても間に合わないのです。その呪いの後始末をするには、甲は乙に対して、改めて自己犠牲の愛の行為を実行しなければなりません。
  念体は独立した霊と同じ作用をします。ですから、甲の呪いの念は乙の周辺にまとわりつきます。そうして、乙が放心状態にある時、あるいは寝入りばなとか睡眠中とか、要するに自我の統御が緩んだすきを見つけて、確実に乙に作用します。
  そしてその効果は、怨念の霊魂が作用するのと同じく、乙を病気にしたり、災厄に遭わせたりします。このように目的をもった念体は、不特定多数には影響しませんが、目指す相手には必ず作用するのです。
  思想というものは、肉体よりも幽体や霊体に印象づけやすいものです。ですから、あなたの周りに唯物論者とか、偏見の持ち主とか、他の人を憎んでいる人がいたら、あなたから思念を送ってください。誠意を込めて一心に相手に向かって愛念を送ってください。そうすれば、念波と念体の作用によって、口で言うよりもさらに大きな効果を及ぼすことに、あなたはびっくりするでしょう。
  このように、愛とか祈りとかは計り知れないほど大きなエネルギーを発揮するのです。ただし、自己の利益のためだけの祈りは、確実に邪霊と同じ働きをして自分を害します。他者の幸福のための祈りこそ、他者を生かし、自分を生かすものとなるのです。

  「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。「丑の刻参り」といって、午前2時頃、呪いの藁人形を作って、神社の境内の樹木に五寸釘で打ちつけます。あれは間違いなく効果があります。ただし、穴二つです。呪う相手の墓穴と、もう一つ自分の墓穴と。
  強烈な呪いの念波は相手に感応を与え、念体は霊の憑依に似た影響を及ぼします。そのために相手は病気になったり災厄を受けます。これが生きている人間からの「他念障害」です。あなたは他者に恨まれるようなことはしていませんか。どうも事業がうまくいかないとか、家庭の中が、子供が、思うようにならない、あるいは病気がちだとかいう場合、生きている人間からの念の憑依や感応であることがしばしばあるのです。
  さて、「穴二つ」のことですが、甲が乙を呪えば、乙は他念障害によって必ず害を受けます。呪った甲のほうは波長の法則によって邪悪霊の感応憑依を受けるのです。おそらく因縁霊が働いてそうさせるのでしょうから、甲は因縁霊の完全憑依状態です。したがって、甲は確実に自分の墓穴を掘り、命を落とします。
  ところが、甲が人を呪っても「穴一つ」の場合があるのです。呪われる対象の乙が高潔の人なら、甲の呪いの念波も念体も、乙には何の作用もしません。それどころか、甲の呪いの念波と念体は、まっすぐ甲に向かってはね返るのです。乙が高潔であればあるほど、はね返る力は強くなります。
  こうして、乙は何の異常もないのに、甲は自分の呪いの念によって死にます。これを「返り念障害」と呼んでいます。
  甲が死んだのは返り念ですが、元は自分の念です。人は自分の念によっても死ぬのです。これを「自念障害」といいます。ほとんどの人は気づいていないと思いますが、自分が発している念は外に向かって影響を及ぼしていると同時に、自分に対しても同じ影響を与えているのです。
  最近はこのことが分かりかけてきて、医学でも心が身体に及ぼす影響を問題にするようになりました。事実は医学が思っているよりもはるかに大きな影響があるのです。
  病気だけでなく、さまざまの災厄の背景に自念障害があります。自念は霊を引き寄せる磁石です。しかし、この自念そのものも自己の身体や幸不幸に作用しているのです。
  強い念は強い念体を作ります。この念体は自己につきまといます。そして、本人が繰り返し同じ念を抱くごとに、その念は肥大化します。いえ、このつきまとっている念体そのものが、本人に作用して繰り返し同じことを考えさせるのです。
  たとえば、胃癌ではないかと思い始めると、もうてっきりそうだと思い込んで、他人が何と言っても受け付けない人がいますね。極端な人は、医者が胃癌ではないと言っても、自分を安心させるためにウソをついているのだろうと疑う始末です。こうして、この人は本当に胃癌になります。胃癌にしてやろうと怨念をもっている霊と同じ作用を、自分の念体がするからです。これは自念憑依です。その人の偏見、凝り固まった思想などはこの自念体のせいです。こういう場合は、自念がその波長に合う邪悪霊を引き寄せます。まず自念のしこりを解消しないかぎり、邪悪霊は祓っても祓ってもついてくるのです。
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 「人間は通信機器」とはどういうことか  [TOP]

  霊が感応憑依するということは、心霊の門に入った人の常識です。しかし、生きている人間の念が、まして自分の念が憑依するとは思いもよらないでしょう。人間も霊ですから、これは事実なのです。
  人間とは、世界にネットワークを張りめぐらしたテレビなのです。また全幽界にネットワークをもつテレビです。ただし、世界中のすべての人、幽界のすべての霊の感応憑依を受けるわけではありません。波長の法則によって、自分と同じ波長の人間や霊の感応があるだけです。
  さて、その波長とは何でしょうか。それは、あなたの幽体のもつ汚れの度合い、裏を返せば浄化の度合い、それがあなたの波長です。幽体は、あなたが生まれてから以降の浄化と汚れが記録されています。また、あなたのいくつもの過去世の浄化や汚れも記録されているのです。いわゆるカルマです。そうです。幽体とはカルマの結晶体でした。ですから、自分のもつ波長とは、カルマ度であり、カルマ波長ということです。
  さて、人間がかくも玄妙な通信機であるということは、人間は極めて誘惑にかかりやすい存在だということです。たとえば、ふと「酒を飲みたい」と思うとき、それは自分のカルマ波長にそういうものがあるからです。すると波長の合う霊がすぐにやってきて、「飲め、飲め」と扇動します。本人はもう飲まずにおれなくなります。これが誘惑です。自分の持っている波長が、霊の感応憑依によって増幅されるのです。
  次に、たとえば友人と話しているときに、誰かの噂話をします。話がはずんで、ついその人の悪口となり、呪うような言葉になるかも知れません。これは念のキャッチボールをしているからです。あなたの中にある少しの悪口の波長が、友人の同じ波長とキャッチボールをすることによって強化されたのです。ですから、生きている私たちの念の感応や念体の憑依なども、霊と同じように波長を増幅するのです。これも誘惑です。
  あるいは、何も考えずにぼんやりしているときに、ふと散歩に出掛けたくなります。そして、散歩の途中で財布を拾うとします。これは偶然ではありません。霊が仕掛ける場合もあります。つまり、「散歩に行こう」というのは自分の発想ではなかったのです。仕掛けた霊との波長が合っていたのです。自分にその気がなくても、波長が合っていれば、いくらでも誘惑は仕掛けられるということです。これも霊による増幅作用です。
  以上、霊や生きた人が自分のカルマ波長を増幅するということを申しました。それはつまり、人間は通信機であるからです。ほんの少しの気持ちしかなくても、感応憑依でうんと大きくなるということでした。人間は誘惑にかかりやすい存在だということです。
  人間は霊のささやきを、外からの声として聞くのでなく、自分の気持ち、自分の考えとして感じるのです。ささやく悪霊の醜悪な顔やずるい表情は見えないのですから、無警戒となり、言いなりになって、自分の気持ちだと思ってそれに従うのです。
  人間が通信機であるということは、全世界と全幽界のネットワークの、誘惑テレビの視聴者であって、そのうまい宣伝の手に乗せられて、いつもころりとだまされているということです。

  毎日の出来事はあなたのカルマ、つまり前世と現世のカルマで織り出されます。たとえば友人と金銭の貸借でいざこざがあったとします。それは2人の間のことですが、あなたが友人とそのような関係を持ったのはカルマのせいです。
  ただ、問題は、あたながそのそのことにどう対処するかです。うまく対処して、カルマを通して進歩といちだんの幸福を獲得することもできますし、逆に、失敗して苦悩と不幸を招くこともあります。そのどちらになるかは、あなたの対処の仕方次第で、あなたの自由です。
  そして、人がカルマによって対面する問題は、その人の力量で解決できないものはないということです。カルマとは自分が蒔いた種ですから、それによって生じたカルマは刈り取ることができるのです。誰にとっても越えられないものではないのです。
  それに、人は再生するとき、神界において今生で自分が経験するカルマを選んで、その審査を受けていますから、越えられないものはないのです。
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 守護の神界組織  [TOP]

  神霊研究の先覚者・浅野和三郎先生と、その後継者・脇長生先生は、ともに多数の招霊の実践指導をされた結果、人間一人ひとりに生涯を通じて固有の守護霊が一人ずつ存在することを突きとめておられます。
  この守護霊と私たちを結ぶ紐こそ、私たちを神につなぐ不滅の鎖、「守護の神界組織」なのです。この神界組織を作動させるのは私たち自身です。私たちの心がけなのです。
  浅野先生は招霊実験を繰り返した結果、本人の性格や体質に酷似した霊が、必ず一人ずつ存在することを突きとめられました。脇先生の場合も同様です。それは本人と霊的に特別の関係にある霊、守護霊とされました。特別の関係とは、いわば本人の魂の親、つまり、本人の霊は守護霊から分かれた分霊だとされたのです。そこで、人間は再生すると言われました。
  ただし、死んだ本人の霊がそっくりそのまま再生する「全部的再生」ではなく、本人の霊は霊界にあるまま、その一部が地上に再生する「部分的再生」という立場をとられました。それは300余人の特定の霊を招霊する実験により裏付けられました。招霊できなかったのは菅公(菅原道真)など2霊でした。菅公はご承知のように「天神さま」として祭詞され、霊格が高くなり、霊媒の低い波長では招霊できなかったのです。
  つまり、霊格の高い2霊を除いて他はすべて招霊できたということは、人は死後すべて他界にある、つまり再生して他界からいなくなるということはない、ということです。ですから、再生は分霊が再生するというわけです。その分霊が私たち、他界にいる霊が私たちの守護霊です。守護霊と私たちは本家と分家の関係で、魂の親子です。
  この部分的再生については、何も浅野、脇先生の招霊の成果というだけではありません。シルバー・バーチ、マイヤース、ジュリアなど、幾多の有力な霊界通信がそのことを認めています。
  さて、浅野先生は、私たちの上には霊界に守護霊があり、その守護霊の上には更にその守護霊があり、次々と守護霊のつながりの環を経て、その鎖の環は守護神に達し、更にさかのぼると太陽神、宇宙神にまで達するのであると言われました。浅野先生は、守護霊と本人の関係について、「なお、断案を下すには至らず」と断っておられます。ということは、霊的真理の奥は深く、一筋縄ではいかないということです。しかし、私たちと守護霊を結ぶ紐に、神へつながる径路があることは間違いなさそうです。
  守護霊とは、分霊である私たちの魂の親ですから、ただ一人です。そうして、生まれた時から死ぬまで、いえ死んだ後も変わらぬ魂の親なのです。したがって、途中で入れ替わったりするものではありません。だいたい200年から800年くらい前に他界した霊が多いようです。魂の親ですから、以心伝心のように、本人との間に特別の心のつながりがあります。
  守護霊は四六時中、本人の守護と善導のために腐心しています。しかし、残念ながら、宇宙の法則は波長の法則です。守護霊といえども、どんなに本人を守護したくても、本人の発する波長が守護霊の高級な心の波長と合わなければ、どうすることもできません。
  せっかく神につながる「神界組織」のチャンネルを持っていても、どうしようもないのです。しかし、人間のチャンネルを守護霊につなげば、それは神につながるのです。それをつなぐカギをもっているのはあなたなのです。あなたの心が、守護霊とつながればいいのです。何と単純なことではありませんか。
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 赤ん坊のように泣け  [TOP]

  では、どうしたらあなたは守護霊につながるのでしょうか。つまりあなたの発信電波を守護霊の波長に同調させられるのでしょうか。それは、もう一度、赤ちゃんのように泣けばいいのです。あなたが赤ん坊のときにしたように。(中略)
  あなたの叫び、それがあなたと守護霊を結びつけるただひとつのカギです。人が守護霊に結びつく原理は、自分で泣くこと、すなわち「自己責任」の原理です。赤ん坊を救ってくれるのは母です。守護霊です。神です。この真実なる救いの手を、それ以外のものと混同しないことが救いに至る決め手です。
  人はとかく、神以外のもの、金や物や自分の弁舌や権力といったものが自分を救うものと勘違いをします。しかし、それは一時的です。そういう依存心やごまかしは、自分のカルマを悪化させ、後にはもっと大きな災厄を引きつける原因になります。
  無心に自分で泣けば守護霊が来るというのは、災厄に遭ったとき、それを他のせいにせず自分で引き受けるということです。もともと災厄は自分の過去のカルマが生み出したものですから、これを自分が背負うことは、そのカルマを素直に認めているということです。これが幼子の心ではないでしょうか。すなわち、人のせいにしない素直な心、いさぎよさ、美しさです。神はこのように魂を浄化することを私たちに求めておいでになるのです。
  ですから、母を求めるように神を求めてひたすら泣く者のもとへ、神は即座に来られます。これが守護霊の回線です。すなわち神と人とを結ぶ不滅の救いの連結線です。人間を天国へと上らせる一本の階段です。
  さて、神が来るとはどういうことでしょうか。あなたの直面している災厄に、適切な回答が与えられるということです。病気に対しては、霊的エネルギーが注がれ、治病の霊が差し向けられます。また、必要なら適した治療法や治病家への道がつけられるということです。
  事業や家庭問題、対人的な争いごとなら、守護霊や支配霊からの適切なアドバイスが、良心の声として、暗示やインスピレーションとして与えられるということです。また補助霊たちが働いて、関係ある人や物に働きかけて、これを動かすということもあります。
  こうして、あなたの見えないところで最も強力なエネルギーの発動があって、奇跡とか、思いがけない運とか、偶然とか‥‥そのように人が呼んでいる状況をはらみながら、問題は解決され、災厄は去ります。
  あなたはこのような経験を通して、知恵と力を増し、見えない存在への確信を深めることになるのです。このような試練をひとつずつ乗り越えるごとに、あなたと守護霊とのつながりは強くなり、あなたは確実に神への階段を上っていきます。
  これは一本の細い紐のような回路ですが、それは神につながる確実な回路です。あなたはこの回路を発見するために、いま地上に生まれてきています。そして、それを作動させるのは自分であるということを知るために――。
  自分のカルマから逃げない勇気ある者だけが、何事も他のせいにしない素直な心の者だけが、そして、ただひとつの救いの回線は神につながることであり、それは確実にあることをしんじる者だけが、神々となる門をくぐることができるのです。

  この世には真相と仮相があります。仮相は苦の世界です。真相はその同じ世界が歓喜の神々の世界に変わります。そのように世界を見る者には、現実に世界がそのように変容します。人は霊であり、霊は神であり、神は世界を創造しつづけるものだからです。
  人が世界を苦と見るとき、その創造力によって、世界は現実に苦であるように現れます。その同じ人が世界を愛と見るとき、その見るとおりに世界は愛に変容します。そして、これが真実の、神である世界の真相です。

■この後、著者は「人が神に近づく3つの行」として、「奉仕の実践」「スピリチュアリズムの知識を身につける」「瞑想」を挙げています。このあたりの内容については類書もたくさん出ていますので、ここでは割愛しました。(なわ・ふみひと)
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● 著者略歴 

桑原啓善(くわはら・ひろよし)
心霊研究家。詩人。不可知論者であった学生時代、心霊研究の迷信を打破しようとして心霊研究に入り、逆にその正しさを知りスピリチュアリストとなる。現在、ニューエージ団体「生命の樹」を主宰。月刊誌『生命の樹』を発行。でくのぼう革命を主唱して活動している。著書『心霊入門』『神の発見』『今ハルマゲドン』『でくのぼう革命』『終末について』『地球よ愛の星に変われ』訳書『シルバーバーチ霊言集』『ホワイトイーグル霊言集』『霊の書』その他多数。
 
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