快癒力 A
この生き方・考え方が健康をもたらす
篠原佳年・著 サンマーク出版 1997年刊 
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★
 ベストセラーとなった『快癒力』の続編です。著者が言いたいことのエキスは前著で言い尽くされていますので、本書はその焼き直しといった内容ではありますが、それでも改めて読んでみる価値のある良書と言えるでしょう。

 病人が必ず答える5つのパターン

  毎日、私のところには、いろいろなタイプの患者さんがやって来ます。特に本を出してからは、私の専門であるリウマチの患者さん以外にも、ガン、糖尿病、高血圧などから精神的な病気まで、前にも増して多くの患者さんがみえるようになりました。
  ほとんどの人は私と向かい合うと「先生、この病気は治りますか」「どうすればよくなるでしょうか」などと心細そうに聞いてきます。こういう人ほど、私がいままで本に書いたり、いってきたことに耳をかさないのです。病気や健康、自分の体というものにとらわれすぎていて、ほかの何ものも見えなくなっている。病気から逃れられない典型です。
  私はどんな病気の、どんな症状であれ、いうことは次のことです。
  「いま、楽しくわくわく感じることをしてみたら、どうですか」
  いちばん大切なのは、病気を治そうとか、健康を保とうなどということを、すっかり忘れてしまうことです。そのためには、我を忘れて夢中になることをはじめなさい、といっているわけです。
  ところが奇妙なことに、すんなりとこの話を受け入れるのは、健康な人ばかり。私の本を読んでくれるのも、健康な人ばかりなのです。病気の人は、何度説明しても「薬は一日何度飲めばよいですか」「手術はしないと治りませんか」――そういうことにしか興味を示さないのです。
  私はだんだん気がついてきました。
  病気の人は、自分がやりたいことが浮かばない。わくわくすることが思いつかないのだということです。そこで、私は患者さんに、こうたずねてみることにしました。
  「治ったら、あなたは何をしたいですか」
  その結果、答えは次の5つのパターンしかありませんでした。
  まず、いちばん多いのが「絶句」です。
  「えっ、先生、何ですか?」
  これがいちばん多い。まず、ほとんど、これだと思います。たしかに、医者からいきなりそんなことを聞かれたら、とまどいはあると思います。しかし、ほとんどの人が『そんなこといわれても、急に自分の病気が治るわけがない』と思っているから、絶句してしまうのでしょう。
  ということは、「治っても、特にしたいことがない」ということです。
  何をしたいということもなく、日常生活を送っていたところ、病気になったために、その生活がストップした。だから、病気が全快したら、もとの日常に戻るしかない。つまり、ふだんの日常生活というのは、「どうしても戻りたいというほどのものではない」ということなのです。要するに、ただ川に流されるがごとく、何十年という時を過ごしているということになります。
  2つ目は男性に多いのですが、「仕事をしたい」という答えです。
  これも不思議でした。病気が治ったら、「もう、いまの仕事をやめたい」というのなら、わかるのですが、治っても仕事をしたいという人が多いのです。
  そんなとき、少し意地悪かもしれませんが、私はこういってあげます。
  「申しわけないんですが、病気は治りませんから、いまから仕事をやったらどうですか。時間がもったいないですよ」
  すると決まって、手を大きく振って、「いえ、先生、治ってからでいいですよ」といいます。つまり、仕事というのも、いますぐにでもやりたいものではないようです。
  しかし、仕事をやりたくないとはいえない。やりたくないものを、やりたいと思うように自分をだましつつ、ずっとここまで生きてきたのですから、病気にもなります。
  3つ目は「家事をしたい」というもの。これは女性が「仕事」の代わりに挙げることの多いものです。治ったら夫の世話をしなければいけない、子供の面倒を見なければならない。洗濯ものもたまっているし、お弁当も作らなければいけない……。これらも、「しなければならない」ものばかりで、決して、「治ったら、わくわくしながらやりたい」ものではありません。
  4つ目は、「旅行に行きたい」という希望です。
  ところが、そういう患者さんのカルテを見ると、みんな遠くから来ているのです。九州からも、東京からも、わざわざ倉敷まで旅をしてくるのです。ですから、もう十分に旅行はしているわけです。
  5つ目ですが、もう少し知的な人になると、「人のためになるようなことをしたい」といいます。では具体的にどんなことをしたいかとたずねると、ただボランティアをしたいというだけで、どこの施設で働きたいとか、介護の学校に行きたいとかいう具体的な目標はありません。
  つまり、病気になる前には、何も考えていなかったわけです。
  要するに、多くの人が病気になる、ならないにかかわらず、自分の人生において、特にやりたいことがないのです。
  「今日一日しか命がないとしたら、あなたは何をしたいですか」
  この質問も、同じことです。きっと明確に答えられる人は少ないでしょう。つまり、人はかなりあいまいに人生を送っているわけです。
  「そんなこといったって、金もないし、時間もない」
  そういう人も多いでしょう。しかし、今日一日しか命がないという前提で「やりたいことは何ですか」と聞いているのに、「金も時間もない」と答えるのでは、あまりにも寂しすぎるのではないでしょうか。
  逆に考えれば、人は決して、やりたいことをやって生きているのではないということなのでしょう。
  いま、病気でないあなたにも、同じことがいえます。
  特にやりたくもないことをやっていれば、当然、楽しくなんかありません。人生が面白いわけもない。食べて、寝て、起きて、働くという毎日では身動きができなくなる。そうなれば、それが病気のもとになるのは明らかです。

 実現したことは、すでに心で思ったこと

  このたとえ話は、ちょっとむずかしかったかもしれません。
  本章で、私がいいたいことは4つあります。
  これらのことがおわかりいただければ、健康をつかむということが、とりもなおさず自分という落とし物を探すことであるのがおわかりになるでしょう。
  この4つのことは、ふだん私が患者さんにいっていることです。そして、これらが、この本でみなさんにまず、いいたいことなのです。
  まず、1つ目は、「望んだものはすべて手に入れている」ということです。
  病気で悩んでいる人がいるとしたら、それは実はその人が望んだものなのです。
  病気が治らない人たちは、「治らない」というイメージを強くもっているからです。人間は頭のなかで理屈で考えたことよりも、体のイメージのとおりに動きます。たとえば「梅干しを思い浮かべないでください」といったとたんに、口のなかには唾がたまっています。イメージの力は想像以上にすごいのです。
  同様に、「病気を治したい」と考えている人ほど、「治らない」というイメージに支配されてしまっているということがいえるのです。
  つまり患者にとって「病気が治らない」というのは、思っていたことが実現した結果なのです。ということは、思いどおりになったということです。思いどおりになったものを、手放すわけがありません。そうなれば当然、治るわけもないのです。
  では、病気になっても治る患者はどうかというと、病気のことなど、まったく考えていないか、忙しくて病気になっていられないかのどちらかのタイプの人です。もう、病気のことなどに意識がない。やらなければならないことがたくさんあるから、治ることばかり考えている。ですから全快したということは、その人が自分自身で「治る」と思ったことが実現した結果なのです。
  つまり、私が気がついたのは、「思ったことが実現するのではなく、実現したことが思ったこと」だということです。
  ゴルフをする方ならわかるでしょうが、必ずボールを池に入れてしまう人がいます。いわゆる「池ポチャ」です。ふつうに打てばまず入らないような角度からでも、上手に(?)池に入れる。それは、みごとなものです。
  この人ももちろん頭では「グリーンに乗せよう」と考えているわけです。でも、もっているイメージはそうではない。「池に入れてはいけない」と思えば思うほど、ボールが池に吸い込まれていくイメージから逃れられなくなるのです。そのイメージに体は忠実に従います。

 心がけたのは病人をつくらないこと

  私がいま一般に行なわれている医療に疑問をもち、自分の病院をつくろうと思いはじめたのは、さまざまな病院に勤務した経験からです。
  それらの病院で行なわれていたのが、私が子供の頃から考えていた「人のために尽くす」という治療ではなく、経営のための治療だったからです。
  たとえば何億円もする新しいCTスキャンが入ると、そのリース料のぶんだけ、検査する患者がいないと採算がとれません。その結果、本当は必要のない人まで含めた月々何十人かの患者が、定期的にCTスキャンの検査をすることになるのです。そのしわ寄せは最後には寝たきり老人にいきます。ツケを払うのは、最も体の弱っている、抵抗のできない人たちなのです。
  何より私が驚いたのは、そんなおかしなことを医者の側も患者の側も何の疑いももたず、一生懸命にやっている、ということだったのです。
  たとえば、こんなことがありました。
  急性の大腸炎を起こした女子大生がやって来ました。下痢がひどいというのです。一応検査をしてみなければわからないということで、担当医に入院をすすめられましたが、翌日から試験がはじまるということで、とりあえず薬だけ調合してもらい、試験が終わってから、精査入院をするということになりました。
  一週間後に彼女はやって来たのですが、もうすっかり元気でした。下痢は翌日には止まり、それから5日の間、便通も異常なく、ごくふつうだといいます。
  この日は私が担当だったので、診察しました。
  「よかったね。一過性の下痢だったようですね。試験前のストレスかもしれない。また、おかしくなったら、来てください」
  私がそういうと、彼女はムッとした顔で、こういいました。
  「先生、前にみてもらった先生には、血液検査、胃カメラ、腹部エコー検査、CTスキャン、それに腸のレントゲンをとるようにいわれましたから、やってください」
  もう、彼女は絶対に検査をするまで引きさがりません。私が「下痢は治っていますし、何の病気でもないので、早くお帰りなさい」といっても、「あのときなぜ下痢をしたのかくわしく調べてください」などといって、てこでも動こうとしないのです。
  しかたなく、ほかの医者が検査をしましたが、案の定、何でもありませんでした。要するに、検査をしないとただ不安なだけだったのです。
  このことがあって気がついたのは、病院というところは、病人を次から次へとつくり出すところだ、ということです。胃が痛いという人に無理やり胃カメラを飲ませて、どうでもいい小さなポリープを見つけ、検査をするついでに糖尿病の境界線にあることを知らせ、今度は、糖尿病の治療をはじめる。少なくとも、私の出合った病院での治療はそうでした。
  人間、だれしも完全に健康な時期というのは、たいへんに短いものですから、この調子で一生、病院通いがはじまるわけです。
  患者のほうも、「大丈夫ですよ」といわれて薬ももらえないと不安になって、ほかの病院でみてもらい、薬を出されると安心したりする。これでは、病人は増えるだけで、減ることはありません。
  私は、医療のこういう状況に気づいてから、自分の診療所をつくって、病人をつくり出さない治療ができたら、と考えはじめました。

 人生では自分自身にしか出会わない

  私は、40歳を過ぎた頃から、いままで述べてきたさまざまなことが身のまわりに起こってきました。さらに、自分の診療所を開業したこともあり、これからの人生を人のために尽くしていこうと思ったのです。私は難病が専門だったので、若くして死んでいく人もたくさんみてきました。そこで、自分が健康で平均寿命の半分を生きたことが、とても得したように思えた。それで、残ったその命を病気で苦しんでいる人たちのために使えれば、という気持ちになってきたのです。
  そう思うようになってから、私の体に不思議なことが起こりました。
  いままでは疲れやすく、栄養ドリンク剤でも飲まなければ疲れがたまってどうしようもなかった体が、急に丈夫になった。睡眠をあまりとらなくても、またあまり食べなくても平気になってきたのです。
  それと同時に、患者さんを健康にするために、自分の懐をかえりみず高価な機器を買ったり、さまざまな治療法のセミナーを受けたり、いままで以上に人のためにお金を使いはじめたら、著書が売れたり、講演の依頼が増えたりで、予想もしなかったお金が入ってくるようになったのです。
  自分の人生を、人のために使い、お金も人のために使い、何もかも、使うようになったら、私の人生がますます豊かになった
  これは私にとって、とても不思議な体験でした。
  このことから、私は2つのことを教わったような気がします。
  ひとつは、他人とは結局、自分自身にほかならないということです。私は、他人のためにエネルギーを使っているようで、自分自身に使っていたのです。
  長い人生のうちで、私たちはいろいろな他人と出会います。出会って別れる。この繰り返しが人生だといってもよいでしょう。
  しかし、見方を変えれば、私たちは常に自分自身としか出会わないのです。
  ある人に会って、「イヤな奴だ」と思う。しかし、それは自分の心のなかにイヤな部分がある、ということなのです。また、イヤな奴だと思っていた人と一緒に飲みにでも行くと、「なんだ、本当はいい奴じやないか」などと思うこともあります。これは決してその人が変わったのではありません。自分自身が変わったわけです。
  同一人物でも、悲しい心をもっている人には「悲しい人」に見え、愉快に毎日を過ごしている人には「楽しい人」と映る。他人とは、自分の鏡にほかならないわけです。
  そうすると、人はだれでも、どこまでいっても自分にしか出会わない。他人に何かをしてあげるということは、自分にしてあげることであり、他人を憎むということは、自分を憎んでいるということなのです。
  いじめを受けた子供が、自殺という結末を選ぶことが多いのはなぜか。それも、本当は自分を憎んでいるからとも、いえるのではないでしょうか。いじめられた子供は最初はいじめた相手に仕返ししようとします。いじめられっ子が猟銃を持って教室に乗り込んだ、などという事件もありました。しかし、どうしても仕返しができない子供は、最後に、本当の敵を殺そうとする。それが、自分なのではないでしょうか。
  ですから、心から他人のために尽くそうと思っている人は、病気にかかっても治りやすい。リウマチの女性が、夫が病気になったため看病にあけくれたおかげで、自分の症状が急によくなった、などということもありました。
  自分のためだけに生きようとする人はエネルギーが減っていきますが、人のために何かをしようという人には、自分自身に無限大のエネルギーが返ってくるのです。
  私が教わったもうひとつのこと、それは、私がいままで悩んでいたことへの答えでした。
  私はリウマチをはじめとする膠原病の専門医として、難病の人たちを多くみているうちに、病気治しとは、結局、自分探しだということに気がつきました。
  自分とは何か、人間とは何か。人はなぜ生まれ、病気になり、苦しんで死んでいくのか。私は、その意味を知りたかったのです。そのために私はさまざまなところに行き、さまざまな手段を講じて答えを求めてきました。
  その答えは、いま自分が生きている姿そのものだったのです。
  人間が自然の流れのままに生きようとするとき、その人の本当の姿が出てくる。それが、その人が「なぜ生きているのか」の答えだということです。
  たとえば、ある人が「私は何のために生まれてきたのでしょうか」と私にたずねたとします。その人自身には、それがわからない。しかし私にはとても簡単に、その答えを見つけることができます。それは、いまその人が何をしているのか、どんな境遇にいるのか。どんな顔をして、どんな姿をしているのか。それを見れば、「なぜ生まれてきた」のかは、わかるのです。
  多くの人は、なぜいまの自分があるのかという理由を過去に求めます。「昔、あんなことがあったから、こんなに不幸な人間になってしまった」「仕事のストレスがたまって、病気になった」――。
  しかし、その人が生きている理由は、本当は「いま」にしかありません。
  過去にこだわる人は時間を止めてしまっているわけです。
  時間は流れていくのが、自然の摂理です。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」、それが本来の姿なのです。その時間を止めてしまえば、自然の摂理に反するわけですから、バランスを失うのは当然のことです。
  私が、40歳を過ぎて人のために命を使っていこうと思ったときに、すべてが自然のままに流れていったのです。過去も、悩みも、自分自身もどこかに流されていった。そのとき、私の体が自然と一体になり、宇宙のリズムと同調して、体が癒しの方向に向かっていったのです。ですから、「自分がいま、なぜ生きているのか」の答えは、あなたが、「いま何をするか」ということにしかありません。
  生命と時間は使うものです。自分の生命をとことん使おうと決心したとき、そのエネルギーがいきいきとほとばしるように活動をはじめるに違いありません。

 宝くじに当たるより貴重な、いまの自分

  ところが、私からみると、本当に自分自身を生きている人というのは少ない。多くの人が一生をかけて、財産とか地位とか名誉など、何かつまらないものに価値をおいて、手に入れようとしているように思えるのです。
  そういうものはすべて幻にすぎません。百億円の財産を手に入れようが、豪邸を建てようが、それはやがて、消えていくからです。消えていかないもの、それは自分しかありません。しかも、ほかの人がどんなにお金を積もうと、努力をしようと手に入らないもの、それが、自分なのです。
  いろいろな病気の人をみていて、感じるのはそのことです。ほかの人がいくらがんばっても、絶対に手に入れることができないものをもっているのに、なぜそのことに気がつかないのか。
  宝くじに当たるよりすごいこと。それは自分を手に入れて、いま、ここに生きていることではないのでしょうか。
  病気を手に入れた人は、「治せ、治せ」といってジタバタする。しかし、いざ治ってみると、毎日病室で寝て暮らせた病気だった頃が、なつかしく思えるのではないでしょうか。
  いまの自分に満足できない人は、どこまで行っても満足できないままです。
  それよりもいまが健康であれ、病気であれ、自分として生きていることを実感してみてはいかがでしょうか。
  いままでの入生がつらく、悲しく、何もいいことがなかったと思っている人も、考えてみると、何か得たものがあるはずです。悲しみが多かったぶんだけ、人の悲しみがわかるようになった。悩んだぶんだけ、物事が人より少し見えるようになった。
  そう思って見てみたら、いままでの人生の一瞬一瞬すべてが決してムダではない、かけがえのないものであったことに気がつくでしょう。
  あなたの体も人生も、何万年もかかって、やっとの思いで手に入れたものなのです。せっかく抽選で当たった車を、いざ手に入れたら「色が気に入らない」「エンジンの音が嫌いだ」と不満をいい出す。それでは病気にならないほうが、おかしいではありませんか。
  すべては、心のなかに問題があるのです。自分が変わればすべてが変わるのです。
  それはちょうど、「おいしい水」を求めるのに似ています。
  おいしい水を求めて、ある人はコンビニに行って「おいしい水」というレッテルの貼られたペットボトルを買うかもしれないし、またある人は富士山のふもとまで汲みにいくかもしれない。
  でも、それよりもっとおいしい水を飲む方法があります。何キロか走ってくればよいのです。思いきり走ったあとの水はおいしい。自分自身が変われば、水道の水でも世界一おいしい水になるのです。それには、自分自身のために、この一瞬一瞬を夢中になって生きれば、それでいいのです。
  仏教の世界に「悟りに至る道はない」という言葉があります。努力に努力を重ねて、険しい山道を行くようにして、人間は悟るのではなく、悟りというのは一瞬にして起こる。気づいたときが悟りだと、この言葉を私は解釈しています。
  この人生は自分が選んで生まれてきたのであり、自分の道を間違いなく走ってきた、ということに気づくと、世界で自分ほど、自分の人生をうまくやれる人間はいない。だれもがオンリー・ワンの人間なのだ、と気づくはずです。
  そうなったときはじめて、何も欲しがらず、だれも恨まずに、いきいきと生きていくことができるようになるのです。
 
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