この国の終わり
日本民族 怪死の謎を解く
林 秀彦・著 成甲書房 2006年刊 

 
日本人なぶり殺しの条件は整った

 この章では、考えることのできない日本民族の明日の運命が問題だ。
 その運命は‥‥、
 喩えれば、10メートル先の線路は切断されていて、目前の千尋の谷に渡した鉄橋は影形もなくなっているのに、時速5百キロほどの速度で突っ走る無人列車に乗っているような状態が日本民族の現実なのである。
 しかもそれは自然とそうなっているのではなく、完全に「彼ら」によって仕組まれている。
 それに気づき、かつ確認する方法は2つしかない。
 ひとつは私がここで紹介する何冊もの本を読み、その内容をまず最初に疑った後で、自分の努力で検討し、真偽を探り、試行錯誤を繰り返しながら深刻に悩み、時には身の危険を冒した個人的なリサーチを試み、また世界各地を自分の足で回り、最低1、2年の期間その場所に滞在し、実地に自らの経験を積み、見聞を広め、再び文献を洗い直して真贋を探るといった努力をすることである。
 だが、これはほとんど、というより確実に不可能だろう。
 もっとも、もしあなたがまだ若く、かつて私がしたように、十代のうちから海外に渡り、無謀に近い放浪を試みるなら、必ずしもありえないことではない。
 問題は、私の時代と違って、それだけの時間的余裕がまだ残っているかどうかであり、それに関して私は百パーセント悲観的である。日本滅亡の必然を学び取り、納得したときに、もうこの国はない。
 もうひとつの、より安易だが、さりとてしないよりはずっとましな方法は、この私の文章を最後まで読み、内容を信じ、私と一緒に立ち上がり、行動することだ。
 しかし(そうするとしても)、最初からもう一度はっきり断っておこう。
 まず九分九厘すべては手遅れである――と。
 この国は終わるのだ。
 仮に私たちがその無人暴走列車に乗っていることを確認できたからといって、それを止める方法は何ひとつないのだから。何しろブレーキが「彼ら」によって破壊されているのだから。これは一種の完全犯罪なのだ。
 となれば、またしても奇跡が必要である。
 昭和では吹かなかった神風が、平成で吹くだろうか?
 私たちは新しい『立正安国論』が生まれるのを祈るしかない。日蓮の若い生まれ変わりが現れる奇跡を待つしかない。しかもその新しい日蓮は、本物の百倍の力がなくてはなるまい。
 なぜホンモノでは間に合わないのか。
 簡単に言う。時代が違うのだ。
 彼が『立正安国論』を書いた時代と現在は、空恐ろしいほどの類似点がある。彼の嘆きと救国の論は、いま読み返しても教えられることが多い。彼の偉大さは今後も時代ごとに再認識されるものであり、色褪せることは永遠にないだろう。
 しかしそれでも――、時代が違う。21世紀の安国の実用にはならない。
 たとえば、確かに天変地異は当時もいまも世界中で起こっているようにも見えるが、それはかつてのような神罰ではない。そのほとんどはハイテクを使った人為的な災害だ。天罰ならば何とか太刀打ちできた日本の宗教家も、原爆をはじめとした意図的、人為的、綿密な陰謀的、シオンの議定書的な体系化された人災、強大な財源を駆使し、世界最高の頭脳を組み入れたイルミナティの確信犯的犯罪などに対しては、もはや、いかんともしがたいのである。
 いまは、エスタブリッシュと呼ばれる一部のグローバル・エリート人間が、神に代わり、何でもできる。
 できないことは何もない。
 海底地震や巨大津波を起こすことも、異常気象と異常潮流を起こすことも、エイズを蔓延させることも、やろうと思えば地軸を操作することさえできる。世界中の人間に不安と恐怖を浸透させるための先端技術はすでに完璧に整っている。最終的な「とどめの一撃」は、いつでも実行可能な状態にある。
 いまはネズミをなぶり殺しすることに無上の喜びを味わう猫のように、ごろごろと喉を鳴らしながら「破局の小出し」を楽しんでいるのが彼らである。
 小は電磁波を使って日本人の脳を狂わせたり、癌を増殖させたりすることから、大は富士山を噴火させたり、日銀を破産させたりすることなどは、その気にさえなれば今日でも実行可能な、いともたやすいことなのだ。
 ロスチャイルドやロックフェラーといった世界の超・大財閥から流れる彼らの資金は潤沢・膨大にある。見返りはそれ以上に膨大なのだから、彼らの出資を躊躇させるものは何もない。
 後は世界の他の部分の征服との兼ね合い、つまり一極支配へのスケジュール的なタイミングに過ぎない。即ち彼らの言う「アジェンダ(実行予定順位)」だ。

 日本の余命はあと僅かである

  どの時代でも、彼らの邪悪な発想(考える能力)は私たちの発想をはるかに超えていた。彼らの悪辣さの度合いは、日本人の常識ではとてもついていけない。そのため私たちは、世界を覆っている真実に対し、考えることを放棄し、信じることをやめる。
  福沢諭吉は彼の『文明論之概略』の中で、開国を迫る列強の真意を次のように要約している。即ち彼ら毛唐(=「外国人」の蔑称)の本音は、要するに「自分たちと商売をせよ、さもなくば殺す、と言っているのだ」という看破である。
  その性温厚にして軟弱な江戸時代までの日本人にとって、この考え方は常識をはるかにはずれた奇想天外の暴言であり、だからこそ福沢もわざわざその事実を本の中でコメントしているのだ。
  しかし彼らにとっては常識も常識、至極まっとうな言い分であり、数万年の歴史をそれのみ集中して生きてきたといっても過言ではない。

  そのような「彼ら」が、いままでは局地的な侵略と征服のみで過ごしてきたのは、ただ単に地球を一極支配するだけの能力が、いま少し足りなかっただけのことである。
  あるいはIT革命、情報革命といった、新しい最終的な手段が出そろっていなかったためでもある。彼らはそれらが出そろうまで、辛抱強く臥薪嘗胆してきた。虎視眈々と、いまに見ていろと舌なめずりをしながら、それでもその時々にできうる最高の手段で、一極支配の地ならしをしてきたのである。
  そしていますべてを手中にし、すべての条件が整ったというわけだ。
  福沢は彼らの言い分を「商売をせよ」と、当時の日本人がやっとフォローできる表現を使って解説したが、本当はそんな生易しいものではない。
  彼らが歴史で実証していることは、「自分たちの奴隷になれ、さもなくば殺す」ということなのだ。商売は、金儲けは、とっくに済んでいる。
  金儲けの最終段階は、いまも昔も奴隷制度の貫徹である。
  さらに、究極の奴隷化とは、頭脳の奴隷化なのだ。つまり、マインドコントロールのことである。
  いまこそ彼らは堂々と宣言する。
  「我々の家畜になれ、奴隷になれ、ロボットになれ、さもなくば殺す」
  それが最後の「お触れ」なのだ。

 「家畜人間」破壊方法は、国によって異なる

  2006年の現在、われわれ人類を包み込んでいる難問と危機は、日本と日本人に限られた現象ではない。
 アメリカ人を含めた「家畜人間」たちは、それぞれの民族特質別の実験材料にされている。たとえば実際の医学実験で、内容によって、これはモルモット、これは猿、これはウサギといったような実験材料としての動物分類が、人間にも当てはめられているわけだ。この実験にはドイツ人を使うのが適当、これは中国人が最適、これは日本人でやってみよう――というように、世界中の人間に、実験材料としての役割分担が与えられている。
 つまり各国民の歴史と文化の違いによって、破壊工作の方法も違うわけだ。
 共通する要素は、全員マインドコントロールの下にあるという点である。
 無論その巨大に組織化された優秀無比な陰謀の目的も、各実験の共通項だ。
 すなわちニュー・ワールド・オーダーとか、一極支配とか、グローバリゼーションとか、そのほかさまざまな呼称は与えられているものの、要は全人類一括統制のファシズム、究極のファシズムである。
 確かにどの民族であろうと、その核となっている性質までを完全に抹殺できないかもしれない。先述の議定書(=シオンの議定書)を読めばわかるように、奴らもそれを望んでいるわけではなく、家畜並みの日本人なら、日本人のままでも一向に痛痒を感じない。それは単に鼻の高い豚と低い豚の違いだけなのだから。
 天才画家・山下清はすべての順位を「兵隊の位」によって区別したが、イルミナティのトップ数人が大元帥ならば、以下二等新兵にいたるまで等級はその民族の核の詳細分析によってすでに定められている。
 やはりいつまでたっても皮膚の白い豚は黄色い豚より豚小屋の広さが違うことになるのだろう。だがどの豚小屋にも、その民族から選ばれる牢名主的「番長豚」がいることになる。奴らの命令を現場で仕切る役で、いまなら日本の番長豚は小泉(=前首相)だ。
 これはアウシュビッツの番長たちが同じユダヤ人だったのと同じシステムである。
 いままでで、最も奴らに忠実だった日本製番長豚が、中曽根(=元首相)であったことは間違いあるまい。後はその亜流である。
 中曽根は、訪日したイルミナティの使い走り・レーガンと一緒にチャンチャンコなどを着て、ホラ貝を吹きながら、国体を奴らに売り渡した売国奴の横綱豚だった。
 この人選(豚選)は奴らの膨大な数にのぼる各陰謀機関、調査機関において周到に行なわれ、豚同士間における等級も決められる。
 たとえばジョージ・W・ブッシュがアメリカ製上等兵豚の位なら、日本の首相は誰であろうと、さしずめその上等兵殿のパンツを洗う洗濯雑役豚どまり。決してそれ以上には昇進させてもらえず、兵隊にもさせてもらえまい。現在の国連の中の理事国差別と同じである。
 だが日本人を民族全体として見たとき、その歴史と文化の特殊性によって、イルミナティ元帥にとっては実に貴重な実験材料であり、そのレベルに関してのみは、ミミズよりもうちょっと金のかかる猿に近い。
 特に人間の「愚かさ」という研究テーマにとって、これほど打ってつけの実験材料は、世界広しといえど、日本人が最高である。
 ずいぶん小さな頃、「人間と猿の違いは、猿の方が頭の毛が3本足りないからで、だから猿の方がバカなんだ」という説を聞いて、なるほどと納得した。
 しかしどう見ても猿の方が毛が多い。きっと猿は歳をとっても禿げない分を勘定しているのだろう。いずれにせよ、日本人は以下の点ではかろうじて猿より3本毛が多いようだ。
 即ち、モノマネ技術、集団行動のパターン化、ボスへの従属卑屈性、頭隠して尻隠さずの短所、付和雷同の軽率さ、いぎたないものの食べ方、弱いもの虐めの天性、他者無視の破廉恥性、札ビラへの執着、などの特徴である。
 となれば、「人間の愚かさによるマス・マインドコントロールの基本技術」といった分野で日本人がどれほど実験材料として役立つか計り知れまい。
 彼らはまず日本人のノーテンキ性を研究材料にして基礎反応を実験し、その結果データーに各民族への多少の修正を加え、洗脳の実践をすればいい。この研究の暗号名は『スリー・ヘヤーズ(三本の毛)』。

 現実は、われわれ日本人が自分たちを猿より3本毛が多いとうぬぼれていても、奴らにとっては猿以下である。その実態は会田雄次氏の『アーロン収容所』を読めばわかるし、人生の半分の時間を使った私自身の海外生活で、いやというほど実感している。
 そんなジャップに対して、奴らはいままでも実験内容に適した時期に、小出しにわれわれを解剖台に乗せ、実験を繰り返してきた。そこが奴らのウルトラ・長期陰謀のすごさである。
 たとえば、

 ―― 日本民族同士を敵対させる革命に駆り立てたとき、フランス革命などの他民族と比較し、どのような行動の違いが生まれるか?(明治維新の革命の特殊性)

 ―― 対外・近代戦争をまったく経験していない民族が、同じ「ゲルプ・ゲファール(黄禍)」同士で戦わすと、どんな反応と結果を生み出すか?(日清戦争)

 ―― その相手がコーカソイドの場合はどうか?(日露戦争)

 ―― ジャップはどの程度忍耐強いか。あるいはどれほどガイジンの本性に無知か?(ハル・ノート、最後通牒に至るまでの日米交渉)

 ―― 大量殺戮近代兵器の使用実験対象として最適(原爆投下)

 ―― 最終的マインドコントロール・全民族白痴化実験(戦後のすべて)


 といったところだろう。
 無論プロジェクト暗号名は私の分裂症的デタラメだが、本物の暗号名が存在していることは間違いない。特にこの世界にも珍しい特殊民族、純真無垢、万世一系のジャップ国家の解体、崩壊、消滅プロジェクトほど、彼らにとって実験しがいのある材料はほかにあるまい。

なわ・ふみひとのミニ解説 
 18年間の海外生活から帰国した著者の目に映った日本は、いまにも滅亡しようとしている無惨な姿だったのです。なぜ日本国民はこのように落ちぶれてしまったのか――それはこの世界を一極支配しようとしているある巨大な勢力によって、意図的に仕掛けられた陰謀の結果なのだ‥‥と林氏は鋭く分析しています。次の文章がその結論部分です。
 「神と悪魔の混合体の白人は、いまや最後の足掻きのように、われわれ黄色人種の日本人の息の根を止める総仕上げにかかっている」
 ナイーブでノーテンキな今日の日本人には、そのハイエナのような白人の舌なめずりは見えないのです。まるで目の前のエサに群がる豚のように、毎日をただ楽しく生きることしか考えることができなくなっているということです。日本人をそのように導いてきたマインドコントロールの力についても、著者は警鐘を鳴らしています。しかし、もう手遅れだと‥‥。
 この本は私が拙著『2012年の黙示録』の中でふれている「サタンのシナリオ」について書かれたものということができます。著者は「神のシナリオ」には気づいていないようです。もし、これからの世界がこの本に書かれているように「サタンのシナリオ」だけで進むならば、私たちには夢も希望もありません。人類は一握りの支配者の奴隷となって、家畜のようにコントロールされながら生かされる生き物に成り下がるしかないのです。
 おそらく、終末の大峠までは、2つのシナリオは全く同じ内容で展開していくと思われます。しかし、最後の最後では2つに分かれるのです。その時どちらのシナリオを選択するかは、これからの私たちの生き方によって左右されます。つまり、日本や世界が直面している今日の事態をどう受け止めるかによって分けられるということです。恐怖におののき、とにかく自分や自分の仲間だけは助かりたいという見苦しい本性をあらわにするか、それとも、すべての現象を次元上昇のための禊ぎと受け止め、冷静に対処できるか――そこが運命の分かれ道になるでしょう。
 いずれにせよ、いまこの世界は、ある勢力の手による「サタンのシナリオ」によって意図的に動かされていて、いよいよそのシナリオの重要な一幕として、日本人の息の根を止めるための総仕上げの段階に入っている、という事実は知っておく必要があります。そして、そのことに対する心の準備をしておくことが大切でしょう。
 この本の著者のように18年間も海外で生活しなくても、もし私たちがマインドコントロールの罠にはまっていなければ、今日の日本人と日本社会の異常性には十分気づくことができるはずです。この現実をしっかり受け止めることによって、私たちは「豚」になることから脱出することができるのです。
 
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