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 仏陀出現のメカニズム
山口修源・著 図書刊行会
 
 運命は二重構造より成る

 あらゆる運命学者、宗教家、文学者等々が共通して誤っている点は、運命というものを1つの観点からしか見ていないことにある。その現象の全てを、世俗的な因果律だけで説明しようとするところに誤りがあるのである。
 では、2種類の運命因果律とはどのようなものか説明しよう。
 1.世俗的運命
 2.非世俗的運命

 この2つである。

 〈世俗的運命〉

 これは、一般にわれわれが運命と呼んでいるものである。あなたが神社のお神籤を引く時にはこの運命について占っているものだ。つまり、この世的な人生とそれに関わる吉凶禍福を指しているわけである。
 一般に言われる因果応報はこの範疇に入り、悪いことを行なうと悪い結果が生じるとするものである。これを悪因悪果、この逆を善因善果という。正しくは「悪因苦果」、「善因楽果」といい、結果として現象そのものを善悪で判断することの誤りが示されている。
 しかし、仏教において正式なこの表現も、私に言わせると未だ不完全であり、これは「苦因苦果」「楽因楽果」と呼ぶべきである。なぜなら、行為そのものには結果同様に善も悪もないからである。善や悪という価値は、人間という秩序において、その社会規範に照らして語られているのであって、教理的な宇宙の構造からすれば、それは機能としての作用にすぎないのである。

 人はよくこんなことを言う。
 @「あいつは悪いことばかりやっているのに出世し、自分は真面目に努力しているのに全く運も何もない」と。
 A「あの人より私の方が優秀なのに、私にはちっともチャンスがない。因果応報なんてバカげた話だ」。
 さらには、
 B「私はこんなに素晴らしい人間なのに、どうしてああいう人たちが私より幸せなのか」 となる。
 そのどれもこれもが理を解しておらず感情論を展開しているにすぎない。
 @でいう「悪人が出世する」理由はちゃんとある。因果律に反することは絶対にないのだ。
 つまり、ここにいう悪人は、出世するために、たとえあくどいことだろうが、それなりに一生懸命「努力」したということなのである。努力という種子が蒔かれた以上、それは時と共に成長し、ついには実を結ぶに至るのである。善悪などという人間の思惑に関係なくそれは機能する。
 悪人といえどもその努力に対してはちゃんと成果が出てくれる。だから、成功もするわけだが、反面、利己的に行なってきたため、他人から反感を受けている。その反感は、集合無意識を通して彼の心の中に、ある種の抑圧を生じさせ続けるのである。また、実際に彼に対して敵意をむき出しにしてくる者もいるだろう。
 人によっては、「今生」において全く何も支障がなく悪事が全うされてしまう場合もある。それは一つの強運であるが、強運であればあるほど、それは始末におえないことになる。なぜなら、その無意識のエネルギーは「来世」にも引き継がれるからである。時間が経てば経つほど、それは巨大な化け物となっていく。その時点において、災いと呼ばれる決定的な事態を生じさせることになるのだ。一般に因果律における矛盾は、因果律が支配する時間が「今生」のみに限定されてしまった点にある。「来世」以降も連続世界として捉えるならば、何らこの誤りが見出されることはない。

 〈非世俗的運命〉

 すでにおわかりと思うが、非世俗的運命とは「霊性の向上」に関わる運命のことであって、その因果関係は、世俗的運命の機能を利用して現れてくるために極めて紛らわしい。
 つまり、霊性の向上につながる行為というものは、世俗的因果と異なり、多分に逆説的要素を持っているということである。それは他者のために行なった事が、なぜか他者から非難されるという矛盾した結果を招くというものである。世俗的因果律にあっては、常に悪業に対しては悪果を招く。この矛盾がなぜ生じるのかは、世俗的な価値と非世俗的な価値が対立的に作用し合うためである。
 例えば、世俗的価値観にあっては「有名になること」は大変素晴らしいこと、成功者の一つの条件とされている。ところが、この同じ「有名になること」が、非世俗的な価値観と出合うと、自己顕示欲や権勢欲や慢心といった自我の巨大化をもたらすものとして、大変に忌み嫌われるのである。それは俗に「修行の妨げになる」という表現で語られることが多い。キリストは金持ちが天国に入れないことを説かれ、釈尊はそれらが執着を生じさせ迷いに陥ると教化された。
 
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