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 死後の世界が教える
「人生はなんのためにあるのか」
マイケル・ニュートン博士・著
澤西康史・訳 VOICE
 
 
 私たちはだれでも、この人生に生まれる前に、特定の両親の子どもになることを自由意思によって選ぶ、という考え方は一部の人たちには受けいれがたいかもしれません。普通の人は自分の両親からの愛情を経験してはいても、その多くが肉親から与えられるべき保護を与えられなかったという未解決の、痛みに満ちた記憶をもっていることもまた事実なのです。大人になる頃には、自分はたまたま両親や家族になった人間の犠牲者なのだと考えるようになります。この推測は間違っています。
 被験者が、自分はどれだけ家族の行いに苦しめられたかと語るとき、私はまず彼らの意識的な心にこうたずねることにしています。
 「もしも子どもの頃にその人に出会うことがなかったら、いまのあなたからはどのような理解が欠けていたでしょうか」
 すぐにはわからないかもしれませんが、その答えは私たちの心のなかにあります。私たちがある特定の家族や友人のなかで育つことには霊的な理由がありますし、それは大人になってから知り合う定めの人たちがいるのと同じことです。
 霊的な自己を知ることは、私たちが両親、きょうだい、配偶者、親友などと共に生きている、その理由を理解することなのです。身近な人から痛みや喜びを与えられるとき、そこにはなんらかのカルマ的な目的があります。ここで覚えておくべきことは、私たちは自分自身のレッスンを学ぶためだけでなく、他人の学びのドラマのなかでも役を演じるために、この世にやって来ているということです。
 惨めな境遇のなかで生きているために、スピリットの世界が神の慈しみの源泉であることを疑う人たちがいます。だがしかし、霊的に深いつながりのある存在たちが、事前の同意のもとに愛憎関係を含む人間の生のなかで、互いに大きな役割を演じ合うことは究極の慈しみにほかなりません。これらのレッスンで逆境に打ち克てば、未来の生では、不愉快な人間関係を繰り返さなくてもよいかもしれません。
 こういったこの世の試練を生き抜けば、私たちはさらに理解が高まった状態で次の生を迎えられるし、魂としてのアイデンティティも深まっていくでしょう。

 死後の世界についてなにを考えたとしても、それは願望的思考にすぎないのだと言う人たちがいます。私自身もかつてはそう考えていました。しかしながら、私たちはたんに偶然につくられた、ただ生き延びるだけの存在ではなく、ある目的のために自己を物質へと変容させる宇宙的なシステムの分かちがたい一部なのだ、という考え方にも、まったく根拠がないわけではありません。私たちの「個」は、死んで終わりになるのではない、と告げるのは私たちの魂の声だと私は信じています。

 自分自身よりも高いものがあることを信じようとする人たちの心をもっとも悩ませているのは、世界にこれほど蔓延する醜悪なものの原因がどこにあるのかということです。悪を根本的な原因とする見方もあります。被験者たちに、慈悲深い神がどうしてこのような苦しみを与えるのかとたずねるとき、彼らの答えはいつも驚くほど似通ったものです。私の被験者たちは、魂は創造主に由来し、懸命な努力をうながすために、完全な安らぎを遠い彼方に置いたのだと説明しています。
 私たちは過ちから学びます。善良さの欠如は人間の根本的な欠陥を示す以外のなにものでもありません。この世の苦難は私たちに授けられた試練という名の機会です。そうでなかったら、私たちは自分自身を通じてこの世を良くしようとする動機を持たなかったでしょうし、進歩を実感することもできなかったでしょう。
 私は自分の研究を通じて、私たちはしかるべき理由があって、不完全な世界に生きているのだということを信じるようになりました。地球は知性的な生命体が暮らす無数の世界の一つにすぎませんし、それぞれの生き物が自分自身の不完全さを調和にまで高めなければなりません。この考えをさらに推し進めるなら、私たちはたくさんの宇宙のなかの一つの宇宙として存在しているにすぎませんし、それぞれの宇宙が魂の進歩のレベルにも似た、異なったレベルの完成度にある創造主を有しているのかもしれません。この神々の系譜に属する、それぞれの宇宙の神的な存在が、それ自身のやり方で自分の宇宙を治めることを許されているのでしょう。
 この宇宙の惑星に生まれる魂たちが、自らの苦闘を通じてその英知を増す、いわば魂の親である大霊の子孫であるのなら、その親の親とも言うべきさらに神聖で絶対的な神が存在するのでしょうか。私たちにいちばん近い神が、私たちと同じようにいまだに進化しているという考え方は、このわれわれの神を生み出した究極の完成された源泉の存在を否定するものではありません。私の考えによれば、至高の、完璧な神は、いまだ完成されていない優れた子孫(神)たちの成長を許すことはあっても、全宇宙の被造物に対する能力や支配力を失っているわけではありません。これらのより劣った神々も究極の神との融合へと向かう究極の啓発の手段として自分自身の不完全な世界を創造することが許されるのです。
 この宇宙に反映する神の存在は、私たちにとっては究極のリアリティです。私たちの神が教えの手段として痛みを使うがゆえに最良の神ではなかったとしても、私たちは次善の存在としてこれを受けいれて、神の賜物としての理性を自分の存在のために役立てていかなければなりません。確かにこの考えを、たとえば、不治の病で肉体が苦しんでいる人に伝えるのは難しいかもしれません。人生の苦しみは私たちの魂の癒しの力を妨げるがゆえに、特に私たちが自分に起こっていることを予定された試練として受けいれられないときには、とりわけ油断がならないものになります。しかし、一生を通じて、私たちのカルマはそれぞれの試練が耐えきれないものにならないようにしているのです。
 
 
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