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 反日国家・日本
名越二荒之助・著  山手書房
 
 
 アメリカで使われている教科書『近代日本の形成』(パイル教授著)

 読者に、日・米の教科書を比較判断して頂くために、アメリカで使われている教科書を紹介したいと思います。紹介するのは、カリフォルニア大学で使われている『The Making of Modern Japan近代日本の形成』という教科書(著者はワシントン大学パイル教授K.B.Pyle)です。この中では、東郷平八郎を大きく写真入りで紹介(縦13センチ、横10センチ)しており、写真の説明文は、「Naval hero of the Russo‐Japanese War日露戦争の海軍の英雄」(323頁)となっております。この教科書は青山学院大学の佐藤和男教授の教え子が留学し、これを使って学んだものです。長文ですが、佐藤教授の直訳を紹介してみましょう。

 
日清戦争

 1894〜5年の日清戦争は、国際関係史において絶大な重要性を持つが、それはこの戦争が清国の弱体ぶりを余すところなく暴露し、東アジアの資源と市場の支配を求めて帝国主義列強間に激烈な競争を展開せしめることになったからである。日本は不可避的にこの渦中に捲き込まれ、自国権益の保護と拡張を最優先関心事とせざるを得なかった。
 19世紀から20世紀への転換期に、日本には欧米列強との平等を望む願望があり、東アジアの原材料と市場──日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、日本はそこから閉め出されることになる──への接近の維持という経済的動機もあったが、日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、固陋(ころう)で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。
 山縣有朋と軍首脳部は、東アジアは帝国主義列強間の激烈な競争の舞台になるであろうと結論した。支那大陸における力の真空がこの事態を招いたのである。ロシアのシベリア横断鉄道建設の決定は、山縣らの懸念の正しさを示した。新鉄道は、朝鮮または南満州に不凍港たる終点を必要としたからである。
 日本列島の安全保障は朝鮮が第三国の支配下に陥るのを防止することにかかっているというのが、日本外交政策の基本的原則となった。さらに参謀本部は、朝鮮の独立は、隣接する旅順港と遼東半島の支配によってのみ確保されると結論した。以上の戦略的目標を胸に秘めて、明治政府は陸海軍の増強を着実に進めた。朝鮮内部の陰謀と政治的混迷は、朝鮮への影響力を競い合う清国と日本の関係を緊張させ、ついに日清戦争が起こり、日本軍の勝利の結果、1895年4月17日の下関条約で清国は澎湖(ほうこ)諸島・台湾・遼東半島を日本に割譲し、朝鮮の独立を認めた。この時福沢諭吉は、王政復古以来の日本の文明開化事業の足跡を回顧しつつ、「われわれ洋学者の一人といえども3、40年前に予想しえなかったことは、一大戦争において、日本帝国の威信を宣揚できるということであり、……わが国の絶大なる幸運を思うとき、ただ夢のごとく、喜びの涙にくれるばかりである」と書いた。だが、4月23日の三国(独露仏)干渉の結果、日本は遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、日本は外交的孤立の感を深め、安全保障面の不安が増大した。朝鮮に対するロシアの利害関係と日本の願望が対立することが明らかとなり、日本政府は軍備の拡張に着手し、山縣は友人への書簡(1895年)中に「日本は、間もなく遼東半島南部を押えるであろうロシアを相手に、10年以内に戦争することを覚悟しなければならない」と洩らした。朝鮮半島の日本の経済的権益は急速に増大しており、日本は、食糧輸入の見返りに絹製品を輸出し、さらに野心的な鉄道建設計画を推進していた。

 
日露戦争

 日本外交の──時間稼ぎのための日露暫定協定(満州と朝鮮での権益の均衡を認めた)締結以上の──最も感銘的な功績は、1902年7月30日の日英同盟の締結であった。日英同盟は、日本の外交的孤立を解消しただけでなく、西洋国家と非西洋国家の間で平等な条件で結ばれた最初の軍事条約を提供した。日本が一以上の国との衝突に捲き込まれた場合に英国の援助を約束していた同盟は、ロシアとの抗争に際して日本の力を強めた。
 朝鮮と満州での両国の権益に関する再交渉が1904年2月に決裂すると、日本は戦争に踏み切り、手始めに旅順のロシア艦隊を奇襲した。日本陸軍は満州での一連の戦闘で、ロシア軍を破ったが、完全に駆逐するにはいたらなかった。ロシア軍を完全に粉砕するためには、日本が有する資源では不足だった。そこで政府も軍首脳部も戦争終結の交渉の用意をしていた。しかし、ロシア皇帝は、バルト海艦隊を派遣して、日本海軍を圧倒することにより、戦局の逆転をはかろうとした。東郷平八郎提督がロシア艦隊を撃滅した1905年5月の日本海海戦は、全世界の注目を集めた。
 米国大統領セオドア・ルーズベルトは、一友人に宛てた手紙の中で、東郷の勝利について、次のように述べている。
 「これは、世界が目撃した最大の驚嘆事だ。かのトラファルガー沖海戦ですら、これに匹敵しうるものではない。第一報が届いたとき、私自身それを信ずることができなかった。だが、第二報、第三報が到るにおよんで、私は、まるで自分が日本人になってしまったかのように興奮を禁じ得なくなり、公務につくことができなかった。私はその日丸一日を訪問客とともに日本海海戦について語り合って過してしまった。というのも、私は、この海戦が日本帝国の命運を決したと確信したからである」
 その後ルーズベルトは日本側に説得されて、両交戦国間で仲介の労をとることとなった。この戦争には、日本の資源の未曽有の動員が必要だった。政府は軍務に成人男子人口の五分の一を動員し、百万人を第一線に送った。死傷者は十万人を越え、財政的出費も巨額であった。きわめて英雄的な努力を維持するため、この戦争は国民的大事業として正当化された。日本史上、この戦争ほど国民の政治的自覚を高めたものはかつてない。日本政府は、戦争の結果、樺太の南半分の領有、韓国における卓越した権益の承認、遼東半島の租借権、南満州での鉄道敷設権を獲得した。      
 歴史家は通常、日露戦争を、日本に大国の地位をもたらし、かつ日本に世界の賞讃を博せしめた出来事として記述する。確かに、この戦争は、近代世界史における画期的事件である。アジア全域を通じて抑圧されていた諸民族の指導者たちは、日本の実例からインスピレーションを受け、彼らもまた西洋の科学と工業を輸入して、白人の支配から脱却し、独自の民族性を保持し、工業化過程をみずかち監督できるものと信じた。例えば、インドのジャワハルラル・ネールは、その自叙伝の中で、日本の勝利は、彼の人生の初期における記念すべき出来事であり、彼をアジアのために献身させた一大原因であり、彼の民族主義と「インドのために闘おう」とする決意を燃え立たせたものだと記録している。

   ★なわ・ふみひとのコメント★
 
日本の教科書がいかに自虐的に書かれているかについて述べた本です。そのことを証明するために、アメリカで使われている教科書から日本の歴史の記述を紹介しています。日本の政府を美化する必要のない立場の人が書いた客観的な日本の姿ということができるでしょう。この本には日本の教科書の記述も一緒に紹介されていますが、対比して読むと、日本の教科書の偏向ぶりに驚かされます。非常に残念ではありますが、この国はすでに日本ではなくなっていることがわかります。残念なことに、洗脳されてしまった多くの日本人は、そのような現実に気づくことはないのです。ちなみに、ここに出てくるルーズベルト大統領は、日本を太平洋戦争に引き込んだ人物とは別人です。

 
 
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