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 人生密度7年説
 短命化社会の〈生と死〉を組み立てる
西丸震哉・著  情報センター出版局
 
 
 健康を「目的」にしてはいけない

 いまの日本をながめてみると、食べものはもちろんのこと、着るもの、履くもの、住むところと、「健康」という意識の日常への浸透度は凄まじいものがある。そのうえ皆がジムやクラブに高いカネを払って通っては、こぞって体を動かし汗を流して「健康」を我がものにしようと必死だ。
 だが、みんなが健康そのものであるとき、「健康」という言葉が発生することはなく、考えに浮かぶこともないはずだ。やたら健康がいわれるというときは、みんながかなり不健康になってきたときでなければならない。現在が健康ブームであるならば、だいぶおかしくなっていると認識されるべきだ。
 いったい何のために「健康」を手に入れようとしているのか、世の人々に尋ねてみたいものだ。
 人によって答えは異なるだろうが、それらの意見を整理すれば、本質的には似たようなところに落ち着くのではないか。
 「健康」を手に入れる目的は、「死にたくない」「長生きしたい」ためであり、あるいは病気になって「苦しい思いをしたくない」ということだろう。
 「死にたくない」「長生きしたい」と願うのは生き物としてごく自然のことだが、それぞれが自分の人生を有意義に生きようとしているのだから、ただ「死にたくない」「長生きしたい」からといった即物的・短絡的な動機・理由づけ以上のものがあってもよかろう。
 栄養士顔負けにカロリー計算をしたり、医師も逃げ出すほど薬の知識を身につけたところで、あまりに神経を遣いすぎると「健康ノイローゼ」になるだけだ。家庭医学事典なんか読んだら、自分の身体にすべて当てはまることばかりで、生きているのが不思議なくらいになる。ではその「健康」な体を使って何をするのかといったときに、なにも目標のない人生ではあまりにも空しい。
 健康とは、ただ単に末永くそれがあればいいというものではない。健康は、「いまが輝くため」「いま、やりたいことがやれる自分であるため」にこそ求められるべきではないのか。
 自慢したいくらい丈夫であり屈強であることは素晴らしいかもしれないが、ストレスをためこんだりノイローゼになって心の健康を損なうようなら、むしろ健康なんか手に入れようなどと力まないほうがいい。
 もっと気楽に「健康」というのをとらえ直す必要がありそうだ。
 私の健康の条件は実に単純明快である。「足腰が丈夫で、頭がボケていないこと」──これだけだ。「なんだそんなこと」と鼻で笑われるかもしれないが、実際に、自分のやりたいことがやれるには、せいぜいこの程度で充分だ。
 「足腰が丈夫で、痛い痒い部分がなく、頭がボケていないこと」程度を「健康」と考えておけば、べつに焦ってストレスをためこむこともない。いままでの無用な気遣いや心配を放棄したぶん、余った時間や体力や思考を好きなことに回したり、それに夢を馳せるという贅沢ができる。
 世を挙げての「健康ブーム」からすれば一見ぐうたらな私のこの健康観だが、いざ自分の好きなことをやって充実した人生を送ってやろうとその気になってみると、やりたいこと、夢見たいことは次々と溢れ出てくるもので、これでもうケッコウじゃないかと思える。
 健康は、あくまでも人生を充実させるための「条件」として基底にあればよい。それを履き違えて「目的」にしてしまうと、たいせつな人生の時間がただ空虚な、沙漠の砂を噛むみたいなものになる。

   ★なわ・ふみひとのコメント★
 
すでに何らかの病気を患っている人にとっては反発を覚える内容かもしれませんが、正常な健康観というべきでしょう。人生の目的が健康の維持や回復といったことに費やされるのは不幸なことです。私は、そのような状態に陥ることを避けるには「食べるものを節制すること」、そして「病気を意識しないこと」の2点が最も大切であると確信しています。
  ただし、残念ではありますが戦後GHQ(占領軍)の手によってアメリカ型の食生活に変えられてしまった現在の日本人にとって、これは大変難しいことでしょう。結果として、今後もこの国の食の乱れは進み、それは健康を害するのみならず、魂の劣化にもつながっていくと思われます。身魂磨きの「身」には「食生活を正すこと」の意味も含まれていることを改めて強調しておきたいと思います。
 
 
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