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 日本 そして日本人
渡部昇一・著  祥伝社
 
 関東軍とアフガン侵略後のソ連に共通するもの

 朝鮮戦争の時に、マッカーサー元帥は北朝鮮を助けている毛沢東の軍隊の基地を叩くため、満州(中国東北部)を爆撃し、シナ海岸の封鎖、および台湾にいる蒋介石の国民党軍の使用を主張した。トルーマン大統領は、この案は局地戦争を地球規模の本格的戦争にするおそれがあるとし、思いとどまらせようとした。そのため、わざわざウエーキ島まで出かけて、マッカーサーと会談した。
 しかし、マッカーサーはなかなかきこうとしない。それでトルーマンはマッカーサーを解任して、総司令官をリッジウエイ中将に換えてしまった。戦前の日本軍を知っている日本人は、アメリカという国の命令の徹底性を目の前に見て、「やっぱりアメリカは違うわい」と尊敬の念を新たにした。というのは、戦前の日本政府は軍隊の不服従によって、いやになるほど苦しめられた経験があったからである。
 満州事変も、関東軍という出先の軍隊の佐官級の人たちが立案、実行した。それを統制できる上官も政治家も、東京にはいなかったのである。この事変によって、日本の国際的評判は甚だしく悪くなった。
 「アフガニスタン侵略後のソ連みたいなものでしたよ」と、当時を知る人は回顧している。このため日本は、そこで重要な役割を演じていた国際連盟を脱退することにもなった。これは昭和6年(1931)のことであるが、それより6年後の昭和12年(1937)には、北シナの出先の連隊が蒋介石軍と撃ち合いをはじめ、これが日華事変となり、太平洋戦争へと連なった。その前にも張作霖爆死事件とか何とか、出先の軍隊が勝手なことをして、中央政府を苦しめることが多かった。
 政府は、各国に対して常に事変の不拡大を約束し、すみやかに平和を取り戻すことを約束し続けた。しかし、シナ大陸での日本軍は政府と関係なく戦争を拡大し、北京占領、南京占領、武漢三鎮占領と続いた。私はそのころ小学生であったが、敵の首都を占領しても、日支事変と呼び、日支戦争と言わないことを不思議に思った。
 学校の先生は「それは宣戦布告をしていないからだ」と説明してくれたが、日清戦争の時は、ほんの少しの戦争でも戦争なのに、今度は大戦争でも事変というのはおかしい、という気持ちが取れなかった。
 今から考えれば、それは政府が決定した戦争でなかったからである。出先の軍隊が惹き起こした事件、つまり事変にすぎないのだ、という立場であったのだろう。しかし、百万の大軍を送って隣国と戦い、その首都を占領しても、なお「戦争ではありません、事変です」というのは無理な話である。
 戦後、大学に入ってから知るようになったことだが、諸外国は当時の日本を「二重政府の国」と呼んでいたそうである。政府と軍隊が外交問題や戦争に関してばらばらなのは、とても近代国家とは言われないであろう。
 だから昭和16年(1941)10月、第3次近衛内閣の陸軍大臣であった東條英機大将が首相になった時、子ども心にも落ち着くべきところに落ち着いたという感じがした。子どもでも、陸軍は首相の言うことを聞かないものらしい、ということはわかっていたし、その陸軍を押さえている人が首相になれば、すっきりするだろうと思ったのである。
 たしかに東條内閣は、その意味では二重政府を解消したと言えよう。首相がいても自分たちの勝手な言い分を通した陸軍だ。その親玉が首相になれば誰も反対する奴はいない。かくして大東亜戦争は宣戦布告をもってはじまった。今度は事変でないのである。武力を持った者は強い、というのは、武士の支配に長い間慣れてきた日本人には受け入れやすい心理的土壌があったと言えるのかもしれない。
 丸腰の民間人が、武器を持った軍隊の上に立つ政党政治は、まだ日本には十分根を下ろしていなかったのであろう。中佐や大佐でも政府を引きずり回しうるものだということを体験してきた日本人には、トルーマンがマッカーサーを解任したことは、新鮮なショックであったのだ。

 
アメリカ社会でも異例の昇進をしたマッカーサー

 マッカーサーは、単なる出先の軍隊の佐官などではない。まず毛並みがよい。父のアーサー・マッカーサーは陸軍参謀総長でフィリピンの総督であった。子のダグラス・マッカーサーはウエストポイント陸軍士官学校を、過去25年間、例のなかった抜群の成績で卒業。若い将校の頃はセオドア・ルーズべルト大統領の武官も勤め、また参謀部員も勤めた。第一次大戦には自ら編成した第42師団の参謀長としてフランスでの主要戦に何度も参加し、負傷すること2度。しかも、後方に配置されることを拒否して前線に残った。
 戦後、歴代校長の中で最も若くして陸軍士官学校の校長になった。その後も要職を歴任し、フーヴァー大統領によって、若くして陸軍参謀総長になった。父子二代読いて参謀総長になったのは、マッカーサー家が最初である。しかも第二次大戦後の歴代参謀総長中では最も若い。また、陸軍大将になったのも、南北戦争の時の北軍の総帥グラント将軍以来、いちばん若い。そして在職中、陸軍の機械化や空軍の独立などに功が多く、参謀総長として在職期間は、歴代のうちでいちばん長かった。また、フィリピン・コモンウエルス政府の国防長官になり、またフィリピン軍元帥でもあった。現役を退いてからもフィリピン国防軍の育成に当たっている。
 昭和16年(1941)、日米の関係が悪化するや、フランクリン・ルーズベルト大統領はマッカーサーを現役に復帰せしめ、極東米軍総司令官に任じ、再び現役の大将になった。二度大将になったのも彼か最初である。太平洋戦争がはじまるや、フィリピン軍の総司令官として、劣勢な軍隊を率いてバタアン半島やコレヒドール要塞で3カ月も頑張り、大統領命令によってオーストラリアに退き、西南太平洋の連合軍総司令官となり、米軍を再建した。そして、総反攻に着々と成功し、昭和19年(1944)には陸軍元帥となり、翌20年(1945)には連合軍最高司令官として日本の降伏を受理した。
 あれほど頑強に戦った日本人のことゆえ、敗戦後の日本管理はひじょうにむずかしいだろうと予想されていたにもかかわらず、きわめてスムーズであった。これは天皇と日本人の性質によるところが多かったと考えられるが、現実に反乱一つなく占領政策が功を収めたのであるから、マッカーサーの統治力と評価されたのである。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
著者がここで述べている中で、関東軍が勝手に張作霖事件を起こしたといった記述には私は多少疑問を持っていますが、当時の陸軍が政治の力でコントロールできない状態にあったというのは事実でしょう。ただ、軍の内部ではヒエラルキーができあがっていたわけですから、そのトップが首相にならなくとも、陸軍内部の統制はとれていたはずです。少なくとも、「満州事変も、‥‥軍隊の佐官級の人たちが立案、実行した」ということはあり得ないような気がします。もしそうだとすれば軍そのものが佐官級の人間たちに牛耳られていたことになってしまうからです。
  戦後、その陸軍や天皇以上の絶対的な権力を持ってこの国を支配したGHQのトップとして、日本国民を洗脳し、「民主化」という名の下にこの国を改造(改悪)して今日のような乱れた社会を作り出す原因を作ったのがマッカーサーです。その出自は大変なエリートの家系であることがわかりますが、そのような人物をトルーマン大統領があっさり更迭することができたのは、強力な権力集団の後ろ盾があったからだと見るべきでしょう。

 
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