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 明治人の姿
櫻井よし子・著  小学館新書
 
 武士と使用人は家族同然の関係

 当時の教育は、ただ厳しいばかりではありません。そこには、おそらく現代の親以上の深い愛情が込められていました。
 寒さのなか、姿勢を保って習字の稽古をする鉞子(えつこ)の背後には、いしがずっと控えていました。寒さで指がこごえ紫色になった鉞子の手を見つめて、幼い子供のこの健気な姿に、乳母はつい、すすり泣きします。お稽古が終わると、
 
《いしは、あたためてあった綿入れの着物に私をくるんで、急いで祖母の部屋へ連れてゆきました。そこには、祖母の手であたたかくてお美味しい甘酒が用意されてありました。私は冷えきった膝を切炬燵の上にかけられたやわらかいお蒲団の下に入れながら、その甘酒を頂きました。いしは傍から、こおった私の手を雪でこすってくれるのでした》
 いしが鉞子の手の甲を雪でこするのは、凍てついた手をいきなり温めてはかえってよくないからです。それほどの厳しさも、《居心地よくしては天来の力を心に受けることができない》という教えから、前述の「心を制御する」力を養う鍛錬として、重視されていたことがわかります。
 鉞子の身の回りの世話はいしが行なっていたのは明らかですが、では、母は、子供の教育にどのように関わっていたのでしょうか。母親はまず、子供の前でも武家の妻としての威厳を保っていました。日常の世話を超えて、あるべき女性の姿を子供に示すことが、母親の重要な責任だったのです。だからといって、母親の愛情が薄いわけではありません。ある時、父母はこんな会話を交わします。
 
「旦那様、余り丈夫でないエツ坊に、あんなきびしい勉強をおさせになられては、無理ではないかと思ったりしてみるのでございますが」
 父は私を膝もとにひきよせ、やさしく肩に手をかけながら申しました。
 「武家の教育ということを忘れてはならないよ。獅子は幼いわが仔を千丈の谷に蹴落して獣王に育て上げるというからね。それでこそ、生涯の大事をなしとげる力が養われるんじゃないか」》

 両親、祖父母、そして下男下女のそれぞれが、子供の教育に役割を担い、深い愛情をそそぎました。『城下の人』の石光真清も、自分を育ててくれた女中をたいそう慕っていました。他家に奉公に出てからも、母を慕うように、真清はその女中への想いを持ち続けています。
 真心を尽くして育て、仕える下男下女たちの使用人は、主にとって家族の一員であり、そのことは使用人にとっても同じだったことがよくわかります。
 たとえば長岡城が焼け落ち、時代が変わってからも、昔の下男下女は変わらずに忠節を尽くします。「お給料の範囲で働く」価値観とはまったく異なり、末代までもこの一族の一員なのだという心の絆によって結ばれていたのが、住時の武家と下男下女の関係でした。だからこそ、武家の子供を育てることに関与できるのは、彼らにとって大きな誇りであり、喜びでもあったのでしょう。
 もう一歩踏み込んで、なぜ下男下女は武士の家族のために働くことを喜びとしたのか、そのことを別の角度からも見てみましょう。
 磯田道史さんの『武士の家計簿』(新潮新書)が、一つの答えを出しています。この書は武士がいかに清貧のなかに暮らしていたかを伝えています。金銭面からいえば、とても武士などやっていられないと思えるほどです。しかし物質的に貧しくとも、武士は子供に十分な教育を与え、誇り高く生きることを教え、そして自らも誇り高く生きていました。自らの欲望を律することで、財力はなくとも権威は自ずとその身に備わり、尊敬を得ていたのが武士でした。
 たとえば、武士の家では、正月には無理をしてでも使用人に新しい着物を与えました。武家の女性たちはそのために四苦八苦して家計をやりくりします。そして自らは着古した着物をほどいて洗い張りをし、仕立て直しをして着るのです。これを何度も繰り返して色があせたりすると、また染め直しをして着ます。
 下男下女の実家のほうがかえって豊かな商家や農家だったりします。彼らは時として、主人よりも金銭的に余裕があります。けれど自らを律し、自己を鍛錬する武士の生き方に敬意を払い、精神を啓発され、まさに家族の一員として主人に仕えました。奉公をやめた後も、彼らの主人への忠節が続くのはそういう理由だったのです。
 『武士の娘』には、お正月のこんな風景が出てきます。
 
《家風として母はお正月の中、一日は召使たちにご馳走を致しました。その日には、皆一張羅を着飾って居間に集まりました。すると小さな塗膳にお正月料理を数々とりそろえたのが運びこまれ、姉と私がお給仕女になりました。母も手伝いました。居並んだ、いし、とし、きん、爺や、それに二人の下男もみんな四角ばって、このもてなしをうけるのでした。陽気なきんは、恥ずかしそうにしながらも、母の素振りを真似て、皆を笑わせました。母は淑(しとや)やかな中にも威厳を失わず、きんをみては微笑していましたが、姉や私は、女中の真似をして、仰々しく低いお辞儀をしたり、丁寧な身のこなしをしながら、一所懸命とりすましていなければなりませんでした。こうして、礼儀正しいなかにも、肩のこらない楽しい、一日を過ごしました》
 この一節から、教科書に書かれているような「身分」では言い表せない、武士と使用人の尊敬の念で結ばれた節度ある関係が窺えます。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
「文明開化」という旗印のもとで、社会生活の西欧化(俗化)が始まる以前の、心ゆかしき日本の姿が描かれています。明治時代は、このような家庭環境の下で育った人たちが世の中の主軸を構成していたのです。やがて大正〜昭和と西欧化の流れが浸透していき、太平洋戦争に敗北してアメリカの直接的な介入を受けることで、社会は大改造されてしまいました。その結果、親子関係は断絶が進み、社会全体が子どもを温かく見守るという風潮はなくなり、今日の哀れな日本の姿を生み出すことになったのです。主と使用人の関係、親と子どもの関係、どれをとってみても、もはやこの国が以前のような凛とした姿を取り戻すことはできないと思いますが、かつては大人たちが力を合わせて子どもを育て上げようとした時代があったということは記憶にとどめておきたいと思います。

 
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