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 餓死迫る日本
小池松次・著  学習研究社
 
 異常気象による江戸時代の四大飢饉から学べ

 前の二つの章で、筆者は、日本におけるシーレーンの重要性とそのきわめて危うい現実、目を覆いたくなる低い食料自給率、しかもその数字さえも信じるにたらないものだという戦慄すべき現実、ならびに政府の危機管理意識の甘さなどを指摘してきました。
 その結果、日本がなんらかの理由で、あるいは、いくつかの要因が不幸にして重なった複合的な情勢変化によって食料危機に陥り、国民が飢餓に襲われる可能性が否定できないことを訴えてきました。
 こういっても、まだピンとこない人が多いことでしょうから、歴史をひもといてみましょう。江戸時代の日本は、各地で何度も飢饉に襲われました。なかでも特に被害が大きかった大飢饉が、現在、四大飢饉と呼ばれています。寛永の飢饉、享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉の四つです。
 寛永の飢饉は、寛永17年(1640)6月の蝦夷駒ケ岳の噴火から始まりました。噴火による降灰と日照不足により、まず陸奥国津軽地方が凶作になったのです。翌18年の初夏には、畿内、中国、四国が旱魃にみまわれ、秋の大雨が被害を拡大させました。北陸地方も長雨や冷風によって作物が育たず、19年には、全国的な凶作となりました。そこで幕府は、諸国に諸事倹約と五穀の節約を命じたのです。その細目は、百姓に定役以外の使役を課すことの禁止、本田畑での煙草の栽培の禁止、酒造量の制限、新規酒醸造の停止、うどん、そうめん、饅頭、そば切りなどの商売の禁止などでした。
 享保の飢饉とは、享保17年(1732)、畿内以西を襲った大飢饉です。前年から続く天候不順で、春になっても冷たい雨が続き、洪水が田畑を荒らし、ただでさえ作物の生育の悪いところにイナゴなどの害虫が大量発生して追い討ちをかけました。被害の実態は、史料によってまちまちですが、通説では、餓死者一万二千人、斃死した牛馬一万四千頭といわれています。
 幕府は被害のなかった地域から救援米を送って対応しましたが、その結果、翌年正月、江戸で最初の打ちこわしが起こっています。打ちこわしというのは、民衆が富商、豪農、高利貸、役所などを襲うことです。このときは、日本橋の米問屋が襲撃されました。救援米の緊急輸送により、江戸の米の価格が急騰してしまったからです。日雇いやその日稼ぎで生きる人々には手が届かない値段になってしまったのです。
 どうです、現在のワーキングプア問題と重なりませんか。幸いにして翌年が豊作だったので、この飢饉は1年で収まりました。平成5年の米不足と似ています。
 次に起きたのが天明の飢饉です。天明2年(1782)から7年にかけて起きた全国的な大飢饉です。天明2年には、奥羽、四国、九州が大凶作にみまわれ、3年には、蝦夷地、奥羽、関東、九州が大飢饉に襲われました。4年には、奥羽など北日本全域が凶作や不作となり、6年には、奥羽、関東を大洪水が襲いました。
 特に被害の大きかったのが、天明2、3年の奥羽地方でした。2年は、春を過ぎても風雨の日々が続き、夏に霜が降り、イネは秋を迎えても青立ち状態のままで、収穫量はほんのわずかでした。そんな冷害の被害に打ちひしがれていた翌3年3月に岩木山が噴火し、7月には浅間山が大噴火したのです。浅間の降灰は、関東甲信越から奥羽にまで及び、北日本全域が冷夏になりました。
 当然、米の価格は大暴騰しました。各地で餓死者、逃亡者が続出、食料の尽きた人々は、草の根はもちろん、牛馬、犬猫、死人の肉まで食べたと伝えられています。まさに地獄絵図さながらとなったのです。疫病の流行がこの惨状に拍車をかけました。
 被害は、あまりにも甚大で、全国的な被害実数を把握することすらむずかしいほどです。一説には、50万人の死者があったともいわれています。
 この大飢饉によって、各地で一揆や打ちこわしが頻発し、幕政の中心人物、老中・田沼意次の失脚要因の一つにもなりました。ごく最近、食料価格の高騰に端を発したさまざまな暴動、またそうした一つによって平成20年(2008)4月12日、中央アメリカの国・ハイチでアレクシ首相が解任された事件が思い浮かびます。食料危機は、権力者の地位をも簡単に奪い取ってしまうのです。
 4番目が天保の飢饉です。天保4年(1833)から7年にかけて全国的に起きました。天保4年、奥羽地方は大洪水と冷害にみまわれました。関東でも大風雨の被害を受け、全国的にも不作となり、米の価格は高騰しました。翌年も天候不順、冷害、暴風雨に襲われ、全国的な凶作で大飢饉へと発展しました。農村では、餓死者や逃亡者、捨て子が珍しくなくなり、狂騰した諸物価に悲鳴をあげていた江戸では、農村からの流入者の行き倒れが相次ぎました。その惨状は天明の飢饉に劣らないものだったようです。
 幕府は、米や銭を窮民に給付し、御救小屋を設けるなど、前後70余万人に手を差し伸べたといいますが、一揆、打ちこわしは収まりませんでした。こうしたなか、大坂町奉行所の与力・大塩平八郎らが天保八年、救民と幕政批判を掲げて兵を挙げました。世にいう「大塩平八郎の乱」です。この乱は失敗に終わり、大塩は放火して自殺しますが、以後、各地に一揆や乱を続発させることとなり、幕藩体制を危機に陥れました。
 これらの飢饉の要因は、すべて異常気象なのです。
 享保の飢饉のような害虫の被害は、農薬を大量に使っている現在ではありえない、といわれるかもしれません。確かにそうでしょう。しかし、その害虫の異常発生を誘発させたのは、天候不順などの異常気象だったのです。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
日本が近い将来食糧危機に見舞われるのは避けられないと思いますが、その原因はいろいろ考えられます。本日ご紹介したのは、日本の人口が現在の半分以下だった江戸時代に遭遇した、気候異変による食糧危機(飢饉)の内容です。今日では海外から食料を輸入すればこのような事態は避けられると考える人が多いことでしょう。しかし、この本では、「全面的に輸入に頼っている石油こそが食糧危機の原因になる」と述べられているのです。かつてアメリカの策謀によって必要な石油を輸入できなくなったことで、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に踏み切らざるを得なくなったのでした。そして、いま石油の道と言われるシーレーン問題が大きく日本にのしかかりつつあるのです。それほど遠くない将来に世界的な食糧危機が必ず訪れることは覚悟しておく必要があるでしょう。

 
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