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 私の生活流儀
本多静六・著  実業之日本社
 
 健康と平凡生活

 私のいままでの健康法は毎日愉快に働いて、三度三度の食事をうまく食うことであった。「空腹は最良の料理番」というが、その有難い空腹を、心身の働きによってもたらすよう、常に忘れず心掛けただけのことである。つまりは、物質的にゼイタクをしない代りに、精神的に大いにゼイタクをすることにあったのである。
 朝起きは私の幼少時代からの習慣である。早晨希望に起き、深夜感謝に眠るというのが一日の生活理想で、夜は比較的宵ッ張りのほうであるが、それでもいつでも朝は早く起きる。とくに私は旅行の機会も多く、この朝起き癖で宿の女中たちをよく驚かせたが、いつ、どこへ行っても朝寝坊などはしない。これがまた絶えず新鮮な空気を吸い、十分日光に浴し、いつも食事をうまく食うという三要点に一致するに至っているらしい。
 酒は若い頃から相当に呑んだほうである。ことにドイツ留学以後は人並み以上にたしなんだ。駒場時代もビール会というのを盛んにやって、同僚間に問題をおこしたほどである。しかし60歳以後は大いに慎み、前記のように酒は一合、晩酌のビールは小瓶1本ということにした。その後さらに節酒を行い、仕舞いにはほとんど禁酒に近いまで呑まなくなった。いまでは、85にして、心の欲する処に従って矩を越えずとしゃれ込み、少しばかり、心持ちのいい程度に呑み始めた。これはお祖父さんを訊ねてきた孫たちに遠慮させぬために、適度にその対手をしてやる必要もあるにはあるが、節度のある飲酒なら、必ずしも健康上排すべからずとも考えたからである。
 煙草は昔からほとんどやらなかった。いまは全くこれを手にしたことがない。酒害より煙害のほうが、健康上によろしくないとは定説のようだ。

 
「ホルモン漬」の公開

 次に、私の専売特許のようにみられている「ホルモン漬」について一言しておこう。
 これについては、すでにラジオでも放送し、再三ほかにも発表したところ、いまもって各方面からの問い合わせが多く、まるで本多の健康が、「ホルモン漬」そのものから生れ出ているかのように喧伝されているので、ここに改めて概略の講義をしておく。
 さて、ホルモン漬といっても、何も特別な漬物があるわけではない。新鮮な大根その他の葉菜類、それに春先の本の芽または盛んに生育しつつある生食に適した植物の新芽、新葉、新蕾、新茎、新根、およそそういったものを毎日採集して、入念に水洗いをし、これを細かに刻み、食塩を少しふりかけ、しばらく石をのせて押しを利かせておくものに過ぎない。皆さんの家庭でも、作ろうと思えばいつでもすぐできるものである。ホルモン漬とは私の家でこう勝手に命名しておるだけのもので、決して専売特許でも、一手販売品でもない。
 古来、新芽、新葉の健康食物として有効なことは、幾多の学者によっても証明されており、また実際にもなかなかにおいしい。私の家では十数年来すでに試みつづけているが、これは普通刻みたてをそのまま食膳に供するか、塩加減の少ない場合はゴマ塩、醤油、またソースなどをふりかけて食する。とくに、炊きたての熱い飯にまぜたり、蒸しパン、サツマイモ、馬鈴薯などと混食すれば一段とその味が引き立ち、代用食に対する食欲も増進してくる。まず数カ月これを常用すれば、だれしも、なんだか体中に力があふれ、頭がハッキリして、幾年も若返ってきたような気持ちになること請け合いなのである。

 
わたしの素人食養学

 私は子供の頃から粗食には慣れっこであった。百姓時代は、どこでも同じであろうが、米半分、麦半分のいわゆる半白メシで、年柄年中、ミソ汁におこうこだけくらいのものであった。それこそ、いまの栄養学者がみたら驚いて目を回すほどのしろものであった。しかし、だれでも平気で農業の重労働に耐えてきたのである。それだからといって、別に私はことさら栄養摂取を無視しようというのではない。人間の健康に最も大切な食養にはできるだけの注意を払いたいと思うのである。
 そこで、同じ穀菜食でいくなら、まず米は玄米または半搗き米にしたい。味噌類は欠かさず、しかも新鮮な野菜類を常用するように心掛けたい。地方によってはそれに土産の果実、雑穀、魚介類を副食物に加えるとし、必ずしも肉類、卵、その他のゼイタク品は無理をする必要がないと思う。しかし、新鮮な野菜額というのは、ホルモン漬と同じ理屈で、できるだけ加工調理を行なわず、そのまま生で、または生に近い状態においてこれを食用することが大切であろう。
 そもそも、米麦その他の雑穀類をはじめ、各種野菜、魚介類は、いずれもそれぞれ特有の持ち味を有しているものである。その持ち味を十分味わおうとすればできるだけ単純に、そのまま生食するか、少なくとも塩煮塩焼程度にとどめて食すべきである。もし砂糖、醤油、油その他の調味料を加えて料理しすぎると、かえってその食料固有の旨味が失われてしまう。たとえば米のメシのごときも、少しこわ目に炊いたくらいのものを、胡麻塩または味噌汁程度でよく噛みしめて食べると、メシの本当の味が出てきてとてもおいしい。それをほかの料理と一緒に食うと、その料理までいっそううまくなる。しかし、その料理のほうが濃厚で勝ちすぎると、今度はメシのほうが押されてまずくなる。こうしたところに、それぞれの持ち味を生かしていく工夫が必要となってくるのである。
 曲直瀬道三(まなせどうざん)は、わが国最古の食費文献たる『養生物語』の中で、日本人はあくまで、米、味噌、鮮魚、野菜など、日本の土地土地でできるもので、しかも先祖以来食いつけた方法で食すのが一番よろしい。外国人が何を食べようと、そんなことを真似る必要はない。日本人には日本人の食い物がある、といっているが、私も日本人には日本食が最も適し、いかに珍味佳肴の中国料理や西洋料理でも、毎日つづかせるわけにもいかず、また毎日つづいたところですぐアキがきてしまうと思う。
 例の二宮翁にも『飯と汁、木綿着物ぞ身を助く、其余は我をせむるのみなり』といった道歌があるが、粗衣・簡易食の耐乏生活は、単なる非常時切り抜けの一時的方便ではない。一国国民の意気を昂揚し、健康を保全し、永生発展への途を拓くものである。すなわち、人間の精神と肉体(すなわち物質)とはもともと一つのもので、いわゆる霊肉一致、物心一如である。それは同じ一つの生命表現の両面であるに過ぎない。しかも互いに相補の関係に立ち、精神の欠乏はある程度物質をもって補うことができるとするも、さらにそれ以上たしかに、物質の欠乏は精神でこれを補うことができるものである。しかもまた、一面の事実において、物質生活が大なれば大なるほど、精神生活が小さくなるものであるから、私は健全なる精神と、健全なる身体とを、両全、両立せしめるために、特に道三、尊徳、二先輩の意に賛し、できるだけ簡易生活を実行したいと考える。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
著者は大学教授として勤めるかたわら独自の生活哲学を実践して莫大な財産を築いた人です。大学を定年退官すると同時に、全財産を匿名で寄付し、自らは簡素な生活を続け、370冊を超える著書を著しています。私は今から20年以上前に読んだ氏の著書『わが処世の秘訣』(三笠書房)に大いに励まされたのを今も鮮明に記憶しています。当時一介の勤め人だった私が特に印象深く読んだ内容は次の部分です。

 
……また人が自分の悪口をいう、天に口なし、人をもって注意して下さると思えば、ありがたいわけである。あるいは時々つまらぬ人に威張られることがあるが、「望みある身と谷間の水は、暫し木の葉の下を行く」木の葉の下をくぐるだけの辛抱ができてこそ、ついに船を浮かべる滔々たる大河となれるのだ、今が成功の基だと思えば、自分を大成させるために、天が邪魔をさせるのだと思えば何でもない。……(『わが処世の秘訣』より抜粋)

 本多氏の恬淡とした生き方は、終末の時代の指針ともなるものです。ここにご紹介した食生活のあり方に関しても、氏の考え方には今日の日本人が参考にすべき内容が多くあります。
 
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