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 歴史に学ぶリーダーの研究
渡部昇一・著  致知出版社
 
 世界を白人支配から救った明治維新

 明治維新が人類史上、400〜500年に一度起こるか起こらないかの大事件であったことが、時間がたつほどにはっきりしてきました。
 昨年アメリカで、同国史上初の黒人大統領・オバマが誕生しましたが、これも明治維新がなかったら未だ実現していなかったでしょう。明治維新=明治政府が行なったことは、コロンブス以来、数百年にわたって続いた白人による有色人支配を打ち壊す画期的な出来事だといえます。
 明治政府が成立した段階でアジアの完全な非植民地は、日本を除くとタイだけでした。それほどアジアは白人だけが支配する世界になっており、日本は白人勢力の到来が最後になりましたが、自らの努力で植民地にされる運命をまぬがれ、巻き返しの始まりになったわけです。
 20世紀と21世紀を比べてみても、20世紀のはじめは人種差別が当然のことのようにあり、一部の人間を除き誰も疑いませんでした。ところが21世紀の現在では、いかなる国も大国と同等に扱われるようになりました。人種差別への厳しい監視の目もあります。この100年で一変したのです。
 その変わる源になった出来事が明治維新でした。日本で明治維新が成功していなければ、世界中は完全に白人支配の下に入り、それを覆す勢力は少なくともその後の1、2世紀は現れなかったかもしれません。
 このことは、外交評論家の岡崎久彦氏も私との対談(致知出版社より『国のつくり方──明治維新人物学』として刊行)で「アフリカ諸国に行くと、首脳たちは皆、明治維新を意識している」とおっしゃっていました。もちろんアジアでも同じです。インドでガンジーの後継者となったネール首相、東京裁判で唯一、被告人全員の無罪を主張されたパル判事、インドネシアの独立を主導したスカルノ元大統領、さらに、ベトナム指導者のホー・チ・ミン、韓国の朴大統領、中国共産党の首脳部も皆、明治維新は「うらやましいもの」だったのです。
 岡崎さんは元駐タイ大使ですが、タイ国でも同じことを聞かされた、とおっしゃっておられました。
 私は今から50数年前、ドイツに留学していましたが、そのとき私が住んでいた隣の部屋に韓国人の教授がいました。また、知り合いのドイツ人の家にも、やはり韓国・京城大学(現・ソウル大学)の教授が下宿していました。我々は仲が良かったのです。というのも、お二人とも戦前の日本に留学していて、全員学歴が日本だったからです。非常に話が合い、彼らの口から必ず出てきた話題が「日本には明治維新があってよかったなあ。我が国にはなかった」でした。


 
幕府崩壊を決定づけた小御所会議

 その明治維新、別の言葉でいえば徳川幕府の終焉ですが、それはいつでしょうか? 日本のジャーナリストの先駆けで戦前のオピニオンリーダーだった徳富蘇峰の見解によれば、慶応3(1867)年12月9日から10日にかけて京都御所で開かれた「小御所会議」だといいます。
 これより先、将軍・徳川慶喜は、10月14目に坂本竜馬や後藤象一郎などの公武合体論者に突き動かされた土佐藩の山内豊信(容堂)の勧告を受け、「大政奉還」をしています。
 すでに当時の幕府は、黒船の来航によって開国を迫られるとともに、「尊皇攘夷」の声が澎湃(ほうはい)と沸き起こり、さらに武力で成り立っている徳川幕府の中心人物の井伊大老が、江戸城に入る直前の桜田門外で、わずか20人前後の浪人に殺されるという前代未聞の事件が起こるなど、その統治システムはガタガタになっていました。
 そこで考えられたのが「公武合体」です。
 タガがゆるんでいるとはいえ、実際に政治を行なっているのは数百年にわたって徳川幕府と幕府の下にあった大名たちです。いくら「尊皇」を叫んでみても朝廷自体が3万石ぐらい、そこに仕える公家たちは皆、江戸でいえば下級旗本くらいの禄しかもらっていない状態でした。そんな人たちに政治ができるわけがない。だから公武が合体して、実際の政治は代表的な公家と大名が集まってやろうではないか──という最も無難と思われる案でした。
 しかし、歴史というものは、無難な案をいとも簡単に乗り越えていきます。
 NHKの大河ドラマ『篤姫』でも知られる薩摩藩主の島津斉彬も西郷隆盛、大久保利通も最初は皆、公武合体論者でした。しかし彼らはその後、藩主の島津斉彬は亡くなりますが、西郷も大久保も皆、武力による討幕を目指すようになります。

 
会議の雌雄を決した岩倉、大久保のひと言

 この公武合体案が完全に崩れたのが、「小御所会議」でした。
 小御所会議とは、この日に発せられた王政復古の大号令で、摂政・関白・将軍を廃止し、有栖川宮熾仁親王を総裁に、新たに議定、参与の合計三職を設けて、この三職による政権運営を決定した政府首脳が集った最初の会議でした。明治天皇も御簾を隔てられながらもご出席された近代日本の最初の御前会議です。主要議題は徳川氏への処分問題でした。この会議の内容は、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に詳しく書いてあるのですが、それを読むと、明治維新の四傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視)に岩倉さんが入る理由が分かりました。
 というのは、小御所会議には、議定に選ばれた山内容堂、松平春嶽(慶永)、薩摩藩主・島津茂久などと、参与の岩倉具視、大久保利通、後藤象二郎などが参列しましたが、前将軍・徳川慶喜を呼ばなかったのです。
 これに対して徳川慶喜に公武合体を説き、大政奉還をさせた山内容堂が「大政を奉還した慶喜公をこの場に招かないとはなにごとか。この集まりは陰謀である。天皇がお若いことをいいことに、詐術をもって政権を決めようとしているのではないか」と文句を言ったのです。
 そうしたら、その言葉尻を岩倉具視がとらえ、小御所会議には、御簾の奥に若き明治天皇が臨席されていましたので、「今そこにいらっしゃる天皇は、お若いといっても聡明な方である。その聡明さを抜きにして、天皇がお若いからわれわれがインチキをやっているとは何事であるか。無礼であるぞ」と戒めました。これには山内容堂も反論が出来ずに沈黙してしまいます。彼の言葉は、さすがに天皇が愚かだといわんばかりで、天皇が幼いからお前たちいい加減なことをやっていると言っているのと同じことになるわけですから、それは天皇を侮蔑したことになるぞ、という岩倉具視の発言に正当性がありました。
 それからは、岩倉具視の独壇場です。どんどん会議を引っ張っていきます。それでも、なんとか徳川慶喜を出席させようとする大名もおり、会議は紛糾しますが、そのときに出たのが大久保利通の発言でした。「出席したければすればいい。その前に、大政奉還をしたのだから800万石を無償で返してから出てこい」と言ったことで幕府側に同情した人たちは沈黙。それによって公武合体論も露と消えました。
 それから数日後に、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)が始まりますが、もうこのときは錦の御旗が登場するような状況になっていました。
 このように、小御所会議が本当に天下の分かれ目だったのです。維新の元勲たちも、あのときから明治維新が始まったという意識がありますから、岩倉さんを立てるわけです。岩倉さんもはじめは公武合体論者なんですよ。しかし天下の流れを見て、ここだ、というときに一気に慶喜をナシにするような発言をして、それで勝ってしまいました。だから、会議というのは怖いですね。本当に重要なことが、演説ひとつでガラリと変わるということがあるんですね。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
岩倉具視が維新に大きな働きをしたことに異論はありませんが、大変な権謀術数の人物であったことは、ここに紹介された小御所会議のエピソードでもよくわかります。そもそも倒幕に反対していた孝明天皇を暗殺した主犯は岩倉具視だと見られているのです。実際に手を下したのは長州の下忍(忍者)であった伊藤博文を中心とする暗殺チームだったようですが(『明治維新の生贄』に詳しい)、首謀者は岩倉具視であったと思われます。
 孝明天皇に嫌われて蟄居させられていた岩倉具視は、孝明天皇の死によって息を吹き返し、病弱だった幼い天皇を伊藤博文が連れてきた長州の大室寅之祐とすり替えてしまったのです。おそらくこの小御所会議の席に、御簾に隠れて着席させられていたのは本物の天皇ではなく、すり替えられた大室寅之祐だったものと思われます。そのニセ天皇の威光を笠に着て、岩倉は小御所会議を牛耳って日本の運命を決めていったのです。
 渡部昇一氏は最後の部分で「会議というのは怖い」と述べていますが、確かに幕末〜維新の大きな流れが会議の場で作られたことがよくわかるエピソードです。そのあとの戊辰戦争の時に登場する「錦の御旗」も、岩倉具視が天皇の許可もなく勝手に作らせたニセモノだったことがわかっています。そのニセの錦の御旗を見て、自分の立場が危うくなると感じた徳川慶喜は、戦場を抜け出して船で江戸へと逃げ帰ってしまったのです。その結果、総大将がいなくなった幕府軍は総崩れとなってしまいます。かくして岩倉具視の謀略はまんまと成功し、彼は西郷隆盛などと並ぶ明治の四傑に数えられることになった、という訳です。
 
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