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 日本史から見た日本人・古代編
渡部昇一・著  祥伝社
 
 「ご先祖様」から「ご近所様」への堕落

 2、3日前、長いことアメリカで活躍しておられた音楽家の夫妻がうちに遊びに来てくれた。そして日本の教育ママの話になった。
 私の知合いの家で娘にヴァイオリンを習わせている母親がいる。この母親自身が実力あるピアノのソリストなのだが、子どもがヴァイオリンのお稽古をするときは、その側にひざまずいたままコーチする。1時間でも1時間半でも。しかも毎日。
 この話をしたら、アメリカ帰りのその音楽家は、「いったい、どうしてそんなことができるのだろう」と嘆息した。彼の夫人は、「向こうの奥さんたちなら、そんなふうに子どもの犠牲にはならないわね」と言った。
 この音楽家のご夫妻はお二人とも、かなり有名な旧家のご出身であるのだが、10年以上もアメリカやヨーロッパで活躍なさっているうちに、日本人の行動様式が理解しにくいものになられたらしいのだ。それで献身的な母親の行為がピンとこないのである。
 それで私は日本の教育ママの行為の背後には、天皇を支えている感情と同じものがあるという自説を述べざるを得なかった。この音楽家ご夫妻は、欧米流の個人主義をよく理解しておられたので、日本の教育ママの場合は単なる個性の欠如としか考えられなかったわけである。
 しかし、私の知人のピアニストは女流として名を成すだけあって強烈な個性の持主であり、個性欠如ということは問題にならない。また近所のママたちと張り合って子どもをしごいているのでもない。というのは、近所に張り合うような人がいるわけではないし、また、この人は他人の目を意識して自分のやることを決めるようなヤワな人でないのである。
 それなのに、毎年リサイタルを開いて好評を得るほどのピアニストの彼女が、毎日、自分の娘のために何時間もひざまずいたままの姿勢でヴァイオリンを見てやるという、欧米では「考えられない自己犠牲」を払っているのはなぜか、ということなのである。
 聞いてみると、このピアニストには姉妹しかなく、しかもこの人の母もピアニストだったのだが、毎日、何時間も彼女につきっきりでピアノを教えたという。つまり親子で続いていることなのだ。
 先ほど、私は日本文化は根本的には先祖たちを意識するところから生じ、西欧文化は、絶対神の目を意識することから生じたと述べたが、このピアニストも自分の一人娘をちゃんとしたヴァイオリニストに育て上げれば、「ご先祖様に顔向けができる」という意識からきているというのが、一番無理のない説明のように思う。
 ついこの間まで、「家名を上げる」というのが日本人の最高価値であった。消極面でも「家名を汚さない」というのが道徳基準であった。それは、つい3、40年前までそうだったのだ。
 しかし、現在は先祖や家を意識することが急減したために、自分たちの行動の理由がわからなくなり、西洋的やり方を無条件に優れていると思うインテリが増えているし、また、むやみと張り合う教育ママが生じているわけである。
 昔の教育ママは──賢母と呼んだものであった──こう考えたものである。「子どもを立派に育て、家名を上げてくれれば、あるいは少なくとも家名を汚すことをしてくれなければ、私は大きな顔をして先祖たちにあの世で会えるのだ」と。
 今の教育ママたちは、先祖に顔向けできないという深い情緒からでなく、隣近所の奥さんに威張ってやりたいという気だから、せちがらい見栄の競争になる。
 つまり敗戦を境にして、日本の母親の質がひどく低下したというのは、彼女らが、「ご先祖様の目」でなく、「ご近所の奥さんの目」ばかり意識するようになったからである。これがよく言われながら、あまり正確には理解されていない「世俗化」の真の意味なのだ。
 これに対して、西欧の世俗化した母親たちは、死後に一人で絶対神と対面する意識がもはや薄れてきて、自分の子どものためにさえ犠牲になることを嫌う。昔は子どもに正しい人生観を与えて一人前にしてやれば、大威張りで神の前に出られると考えていたが、「子どもには子どもの好きなようにさせればよい」という考えが安直に用いられると、自分の性生活や愛情生活、あるいは物質生活を最優先させる母親が出てきて、子どものことはほったらかし、自分が離婚した場合に子どもが味わう苦悩にも二次的考慮しか払わないママたちが出来る。日本の教育ママの反対が出てくるわけだ。
 つまり、こういうことになろう。日本のような先祖の目を意識していた文化において世俗化が起こると、自分の行為の基準が近所の目というところから、過当教育が生ずるが、欧米のように超絶神の目を意識するところで世俗化が起こると、自分さえよければよいというところから、過少教育が生ずる傾向があると。

 
なぜ、ユダヤ人に天才が多いか

 これに関して考え合わされることは、現代のアメリカの音楽家や学者の圧倒的多数が、少数民族グループであるはずのユダヤ系であることだ。アメリカ人の学生などは、よく「ユダヤ人はインテリジェントだ」などと言う。
 だが、実際には黒人が先天的にそんなに知性が劣っていないのと同様、ユダヤ人が先天的に知能が特別優れているわけはない。しかし、黒人の貧民ゲットーからは圧倒的に犯罪者や失業者が多いのに、ユダヤ人の貧民ゲットーからは素晴らしい学者や芸術家が輩出し、犯罪者が少ないのはどうしたことか。
 さまざまの理由があろうが、私は「先祖が意識されているかどうかにある」とあえて断言したい。私がユダヤ人の家に招かれて感激したのは、そこでは先祖が祭られていたことである。死んだ先祖には、その好物を供えたりする点、私が幼いころの日本を想い起こさせるものがあった。そして彼らは、何千年か前にいたダビデ王やモーゼを自分の先祖だと意識している。
 この意識があるからこそ、国を失ってから何千年も経ってからイスラエルを建国したり、あるいはユダヤ人という共通意識を持ち続けているわけである。ユダヤ人の神は超絶的な一神であるが、同時にユダヤ人は戦前の日本人のような先祖意識を持ち続けている。このため、ユダヤ人の母は賢母が多い。ユダヤのゲットーからは学者や芸術家が輩出するわけである。
 これと対照的に、黒人は先祖を意識しようにもしようがない。彼らの祖先は奴隷船に乗せられて来て、しかも親子兄弟バラバラに奴隷市場で売り捌かれたのである。彼らにとっては祖先を思い出すことは不愉快なだけであろう。立派な教育を受けた黒人の数も増えてきてはいるわけだが、ユダヤ人と比べればまだ大きな差がある。
 日本でも大きな仕事を為し遂げた人物の多くが、「今は落ちぶれたこの家を興さねばならぬ」という動機づけを持っていたことを考えるならば、先祖を意識できるような民族は、一つの特権なのだと言いうるかもしれない。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
最近は「ご先祖」を意識しない日本人が増えているように思います。戦後の偏向教育の影響が大きいと思われますが、これによって日本人はいよいよ根無し草になりつつあります。歴史を学ばず、先祖を思わない民族は、やがて家庭は崩壊し、親子関係の断絶が進みます。最後は単に国土と言語だけを共有する寄り合い民族になってしまう恐れがあるということです。もはやこの流れを変えることはできそうにありませんが、一人でも多くの人にこの現実を知ってもらうための努力は続けていきたいと思っています。
 
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