[戻る] 
Browse  
 
 日本の反省
飯田経夫・著  PHP新書
 
 
 悪しきアメリカニズム

 どう考えても日本は、そして私たち日本人は、「アメリカ的なもの」「アメリカ特殊的なもの」に対して、もう少し懐疑的であり、警戒的であったほうがいい。西欧に発し、ある意味ではアメリカで「最高にして最終の段階」にまで発展した近代の個人主義・合理主義が、いまや極北に到達し、深刻な「行きづまり」に直面していることは、否定できないのではないだろうか。
 もちろん、「近代の終焉」論はけっして新しい議論ではなく、第二次大戦前にもそれはあり、戦時中にもあった。だがそれは、独りよがりの神がかりの方向に迷走し、日本の悲劇の一因ともなったから、戦後長くタブー視されてきた。しかし、やはり、「火のないところには煙は立たない」のではないだろうか。
 たまたま近年、日本周辺のいくつかのアジア諸国に産業革命が続発し、それら諸国は近代化・産業化への道を歩み始めた。これまで近代化・産業化は、日本を唯一の例外として、もっぱら西欧的・欧米的な事件だったから、「アジアの時代」の到来は、たしかにこれまでの歴史の常識に対して、書き換えを迫るたぐいの大事件である。
 これまで、近代化・産業化は、白人だけに可能な事柄であり、非・白人として唯一それに成功した日本は、せいぜいのところ、非常な変わり者とみなされてきたにすぎない。知識人がしばしば口にする「日本特殊性」論とは、究極のところそういうことだろう。ところが「アジアの時代」の到来は、それを実行できるのが日本人だけではないことを実証した。そこに、日本の前例が大きな励ましとなっていることは疑問の余地がないだろう。
 しかしその点は(とくに、人種問題のようなデリケートな問題は)、日本人がことさら大声で言い立てるべきことではないだろう。私たち日本人はそれを胸の奥底深く秘めて、ひそかな誇りとすれば足りる。とくに既成勢力である白人にとって、それは非常に気になる事柄であり、できることならばいちばん触れられたくないことかもしれない。また、非・白人であるアジア諸国の人たちにとっても、日本が「よき前例」だなどと言っては、彼らのプライドを傷つけるかもしれない。
 いずれにしろ、アジアに対する人びとの関心が高まっている。いまから四半世紀あまり前、私が1年間インドネシアに住み、その政府で働くという形で最初の「アジア体験」をしたころには、たとえば日本の書店にはアジア関係の本などほとんど並んではいなかったし、雑誌の編集者などは「『アジア特集』は絶対に売れない」と言うのが常だった。それも悲しかったが、それとは様変わりの近年のアジア・ブームも、私は手放しで喜ぶ気にはなれない。なぜなら、それはあまりに唐突でバブルの臭いがするからである。
 とくに気になるのは、アジアで大きな力を持つ中国系の華僑資本が、言わば商業資本的で、短期間での資本の回収を重視しすぎるところである。したがって、商業やホテル・不動産関連のプロジェクトはスムーズに伸びるけれども、資本の回転期間の長い製造業などは、どちらかと言うと不得手とする。ひとくちで言うと、それは「拝金主義」的に過ぎる。カネにまったく関心がなくては産業革命は起こせないが、カネに対する関心が強すぎてもうまく行かないのではないか。
 アジアの勃興は、「アジア的価値とは何か?」という疑問を提起する。しかし、アジア諸国はまことに多様だから、「アジア的価値」などは存在しないと考えたほうがいいのかもしれない。隣国の韓国や中国をちょっと見ただけでも、たとえば、口角泡を飛ばして大声でしゃべる人びとの様子に接し、その「文化」が私たち日本人とはずいぶんちがうことに気づく。したがって、「アジアは××である」という肯定文の形で「アジア的価値」を特色づけることはあきらめて、むしろ「アジアは××ではない」という否定文の形で考えるほうがいいのかもしれない。すると、ここで「××」に当たるのは、たとえば「個人主義」ではないだろうか。
 つまりアジア諸国は、おそらく「個人主義ではない」。アジア諸国の人びとは、いちばん大事なものとして、欧米またはアングロ・サクソンのように「自我」「個人」を考えず、それとは別の何物かを考える。「別の何物か」は、たとえば日本(かつての「よき日本」?)では「職場の仲間たち」である。また、血のつながりなどの「コネ」が日本とはくらべものにならないほど重要な意味を持つ(=ネポティズム?)中国や韓国では、おそらく「血縁関係」だろう。このように「個人以外の何物か」が国によってちがうところがアジアの多様性だろう。そこでここでは、アジア全般を語ることはあきらめて、日本のことだけを語ろう。
 日本の「文化」の著しい特色は、自己主張が弱く、その意味できわめて非・個人主義的なところにある。たとえば、「集団の和を貴ぶ」ために、他人のことをおもんぱかるのあまり、自己主張がどうしても中途半端に終わってしまう。言わば、はじめから「世はさまざま」であることを前提とし、他人の立場がわかりすぎてしまうようなところがある。その結果、日米交渉のような外交交渉では、残念ながら必ず割りを食ってしまう。
 私は、いまや日本は戦略を持つべきだと言ったから、その意味では、日本は以前にもましてしっかりと自己を主張すべきだ、と言ったことになる。しかし、スーパーで買った熱いコーヒーをこぼして膝に火傷したアメリカ女性が、スーパーを相手取って訴訟を起こすようなたぐいのくだらない自己主張は、やはりしないほうがいいだろう。
 この女性のような自己主張の行きすぎのことを、かりに「悪しきアメリカニズム」と呼ぶことにしよう。日本人の言動は、つねに日本の「文化」を背負っているから、そういう「悪しきアメリカニズム」が日本に蔓延することはまさかなかろうと、私はたかをくくっているところがある。しかし、たとえば「規制緩和」論に見るとおり、これほどアメリカニズムが大流行すると、そうとばかりは言っていられないかもしれない。
 自己主張の抑制は、これまでは悪いイメージばかり語られてきた。たしかに言いたいことも言えずに泣き寝入りするのは、いいことではない。しかし、「悪しきアメリカニズム」のような極端な自己主張は、みずから抑制するのが、まさに人間が持つべき「規律」であり、「節度」であろう。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
自己主張というよりも自己利益重視(利己主義)が蔓延しつつある今日の日本社会ですが、その淵源が、戦後アメリカから強制的に植え付けられた「悪しきアメリカニズム」にあるのは間違いない事実でしょう。これからも日本社会から「規律」 と「節度」が失われ、他人や社会全体のことに心配りのできない人たちが加速度的に増えていくと思われます。自己主張を極限まで高め「訴訟社会」と化しているアメリカ社会の病理が、いまやこの国にもしっかりと根付きつつあるのを感じます。これこそがまさに「終末現象」なのです。私は、これからも「人の二極分化」のスピードがますます速くなっていくと見ています。
 この本のタイトルは「日本の反省」となっていますが、もう日本国民がこぞって「反省」するチャンスは終末の大峠しかないと思われます。そう遠くない将来にスタートすると思われる終末の大乱に備えて、しっかりと心の準備(=覚悟)をしておきましょう。
 
 
[TOP]