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 やがて悲しき「乃木=愚将」論
岡崎幹彦 『歴史通』2010年5月号
 
 さらば司馬史観

 『坂の上の雲』が出てから30数年、世を覆った「乃木=愚将」論が急速に終焉しつつある。今日なお、これを強く唱えるならその人は無知と不勉強の誹りを免れないだろう。
 司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』で、「乃木が旅順で信じられないほどにまずい戦をしつづけている」「乃木のいくさべた」「乃木軍の作戦首脳者がおそるべき無能を発揮」「馬鹿の一つ覚えのような戦法」「もっとも愚劣でもっとも頑迷な二人(乃木と参謀長伊地知幸介)」「戦史上類がないといっていいほどの無能頑迷な作戦を遂行」等、乃木と第三軍司令部の作戦、指揮統率につき嘲罵の限りを尽した。
 人気絶頂の国民作家であり半ば神様扱いされた司馬氏がこれほど言うのだから、自国の歴史をよく知らぬ人々が「乃木=愚将」論を真に受けたのは無理もなかった。氏の小説は確かに面白い。私も熱心な愛読者であった。しかし小説だからそこに虚構があり書き手の強い主観と僻見(=偏見)が入ることが避けられない。だが虚偽はいつまでも通用しない。30数年たって人々はようやく「司馬史観」の束縛から解放されつつある。昨今、「司馬史観」につき異議申し立てをする人が続々出ており、氏の歴史の見方と人物評価に偏向と重大な誤りが見られることが問題視されるようになった。「乃木=愚将」論はその最たるものである。
 日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大な歴史の一つが日露戦争である。20世紀初頭、欧米列強による人種偏見に立つ有色民族への植民地支配は極盛に達し、わが国を除いて悉く屈従、隷属を余儀なくされた。従って本来ならば日露戦争は決して起こり得ず、万が一あり得たとしても、日本の勝利は絶対的に不可能というほかなかった。
  欧米白人国家と非西洋諸国の国力、軍事力、経済力、科学技術の差は比較するのも野暮である。「劣等人種」とされた有色民族は欧米列強に征服支配される為の存在でしかなかった当時の世界的背景を顧みることなしに、日露戦争を正しく理解することは出来ない。

 
「日本はこれで終わりだ」

 日本が対露戦争に立ち上がったとき、世界はこれを狂気の沙汰と見なした。欧米では「豪胆な子どもが力の強い巨人に飛びかかった」と評した。国交を断絶したとき駐露フランス大使は栗野慎一郎駐露公使に、「気の毒に日本はこれで終わりだ」とつぶやいた。敗北するというのではなく日本は滅亡するという意味である。
 駐露イギリス大使は目に涙をたたえ栗野に「ロシアと戦うのは無謀だ」と諫めた。駐日ロシア公使館の一武官は、「日本軍が欧州のたとえ最弱小国に太刀打ちできるようになるまでには数十年おそらく百年かかるであろう」と言った。世界一の陸軍国であるロシア、イギリスと世界の覇権を争う強大国ロシア──これに挑戦するのはもってのほかであり、ロシアにとり日本は先の三国干渉の如く恫喝して屈従させる対象であって、決して対等に戦うべき相手ではなかった。それが世界の常識であった。
 国内においても日露戦争はとうてい勝ち目なしとして最後まで反対したのが元老筆頭の伊藤博文である。現実を直視する常識豊かな政治家伊藤が日露戦争に強く反対したのはある意味で当然であったろう。敗戦どころか亡国の可能性が高かったからである。
 しかし既に満洲を併呑して韓国に侵略を開始し東アジア支配の野望をむき出しにするロシアが、最終的に日本を狙うのは必至であった。戦わずして亡国の恐れが刻々と迫ったのである。わが国は自国の独立と生存のため否応なしにロシアと戦わざるを得なかったのだ。
 日本の勝利は非西洋唯一の例外、世界史の奇蹟にほかならなかった。それは欧米の非西洋侵略を阻止し、やがてその植民地支配を終焉させる礎となる一大転換をもたらす画期的歴史であった。勝利をもたらした要因はどこにあったのだろうか。
 日露戦争について教える今日の歴史教育は無惨の一言につきる。例えばいま全国で使われているほとんどの中学歴史教科書に登場するのは幸徳秋水、内村鑑三、与謝野晶子、堺利彦、大塚楠緒子で、温度差はあるにせよみな戦争反対者である。乃木も東郷も出てこない。つまりこの5名が日本民族の存亡をかけた一大国難たる日露戦争という物語の「主役」だと言っているのである。
 日露戦争に反対したのはごくごく少数で、大多数の国民は戦わざる限り亡国あるのみと信じたから、挙国一致で戦い抜いたのである。にもかかわらず日露戦争を少年たちに教えるとき、戦争反対者だけ麗々しく取上げるというのはおかしくはないか。これほど馬鹿な話はあるまい。
 では日露戦争の真の主役は誰か。言うまでもなくこの戦いの勝利のため最も重要な貢献をした政治・外交・軍事上の指導者にほかならない。最高の主役は明治天皇だが、天皇を別として論じよう。
 まず首相の桂太郎である。日露戦争の勝利を導いた大功ある首相として、桂は近代日本の首相中、伊藤博文と並ぶ代表的政治家である。開戦及び講和外交を一身に担った小村寿太郎は近代随一の外相として特筆されなければならない。
 桂・小村以上に重要な主役は誰か。それは実際に戦った将帥、軍事指導者である。幾多の名将中最大の働きをしたのが陸軍では大山巌と乃木希典(まれすけ)、海軍では東郷平八郎である。ことに日露両国の命運を分けた旅順戦の主将乃木と日本海海戦の劇的大勝をもたらした東郷の両者こそ主役中の主役であった。それは日露戦争の歴史を虚心に見つめるならば全く疑問の余地がない。

 
要塞戦の知識ゼロ

 明治、大正、昭和前期までの日本人は日本海海戦を別として、日露戦争といえば誰もみなすぐ旅順の戦いを思い浮かべ、旅順といえば乃木を思い、明治日本の苦難と栄光の歴史を顧みた。旅順攻囲戦こそ日露戦争を象徴する最大の激戦、難戦であった。
 しかし始まる前それを予想した者はなかった。ロシアは旅順に陸相クロパトキンが「いかなる敵を引受けても3年は支えることができる」と自負する要塞を築いていた。だがわが参謀本部は旅順を軽視し、近代的要塞の攻め方につきほとんど研究せず準備を怠った。参謀次長児玉源太郎は敵兵力を1万5千、大砲200門と推定し、乃木希典率いる第三軍に3個師5万余(後に1個師追加して6万4千)の兵力と大砲300数十門を与えた。敵の3倍以上の兵力と彼を上回る大砲を以て短期間に要塞を攻め落とし後顧の憂いをなくし、満洲の主戦場に速やかに合流せよというのが第三軍に与えられた訓令であった。
 ところがこれが大誤算だった。敵兵力は4万8千、大砲は600門以上もあった。戦力を3分の1以下に低く見誤ったのである。戦いの原則として要塞を攻める時は、攻者は守者の最低3倍以上の兵力が必要とされる。つまり第三軍は最低14万の兵力と敵の大砲600門を圧倒するに足る大砲及び砲弾が必須であった。それがたった5、6万の兵力と質量共に劣る大砲・砲弾しか与えられなかったのである。
 これが、旅順戦が難戦苦戦に陥った最大の理由である。この過少、貧弱な戦力ではたとえいかなる名将であろうとも勝利は至難で、惨敗する以外にあり得なかったことをまず知る必要がある。
 すなわち第三軍が第1回、第2回総攻撃に敗れ大難戦した原因は、乃木及び第三軍司令部の作戦及び指揮の拙劣無能にあるのではなく、参謀本部の敵戦力の誤断による話にならないほど過少な戦力にあったのである。従って敗北の真の責任は、第三軍ではなく参謀本部にあった。つまり乃木ではなく児玉(そして参謀総長大山巌)にあったのである。司馬氏はこの肝腎要のことを全く無視し責任を偏に乃木及び第三軍司令部に帰し罵倒したのだから、的はずれの非難とならざるを得ないのだ。
 ‥‥(以下略)

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
この国を大国ロシアの侵略から守るために命を賭けて戦った人物たちを評価せず、当時の世界情勢を知らないために戦争に反対していただけの人物たちを教科書で美化してしまっているこの国の実情に慨嘆する思いです。まだ武士道精神を残していたと思われる乃木希典や東郷平八郎、大山巌、小村寿太郎といった人物たちこそが、本来であれば教科書でも正しく伝えられるべきなのです。司馬遼太郎程度の人間には、そのような明治人の心意気を正しく理解することは難しかったということでしょう。私が長年にわたって、どうしても司馬氏の本と波長が合わなかったのもうなずける気がいたしました。
 
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