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 科学者である私の信仰
 原田三夫・著  東明社
 
 愛を失わせる殺生

 愛の成長を妨げるものの一つは、生き物を殺すこと、すなわち殺生である。昔から「愛、禽獣に及ぶ」というとおり、愛は動物にも働くべきものである。動物は人間のような心は持っていないが、人間の愛情は、動物も人間のような心を持っているとして、動物に働らく。人間は死を恐れ、死に直面したばあいに、助かろうとして力限りもがく。それを見たならば、誰でも愛情から、何とかして助けてやりたいと思うが、動物も死を恐れ助かりたいと願っていると思い、動物に対してもその心が働く。そうすれば、動物を殺すことはできないはずである。平気で殺生をする人は、動物に対する愛のない人である。
 動物を殺すことを何とも思わぬのは、これも原始時代の心が残っているからである。昔は誰でも魚をすなどり、鳥や獣を狩りとって食べた。かわいそうだと思って殺生をしなければ生きていかれないから、そういう心があったとしても消えて、殺生を何とも思わぬようになった。動物を平気で殺すのは、その心が残っているのである。
 鳥や獣の狩猟のばあいには、殺生に快感を感じるようにもなった。そうすれば狩猟がうまくなり、獲物が多いからであるが、いまの狩猟の好きな人はその心も残っているのである。魚釣りは古くから庶民の娯楽として、または心の修養のために行なわれてきたもので、殺生ではあるが残酷性はない。残酷と思うものは、釣ることを楽しむだけで魚は放してやるが、それならば犬や猫を飼うようなもので、殺生にはならない。殺生を何とも思わずくり返すことは、動物に対する愛情をますます起こらぬようにする。
 動物に対する愛情のない人は、人間に対する愛もない人か、少なくとも弱い人である。動物愛がなくて人間愛だけが強いはずはないからである。反対に動物愛の強い人は、人間愛も強い人である。
 平気で殺生をすることは、ほかの人、とくに子供が、そのまねをして、殺生を何とも思わぬようになる。殺生を面白がる人は残酷を喜ぶ人であるが、その人は残酷の面白さをも人に教える。殺生を何とも思わぬ人や面白がる人は、ほかの人の愛をも弱くするという大罪を犯しているのである。ところが、世間には、そういう人がひじょうに多い。
 イギリスやフランスでは、動物を殺すことはもちろん、虐待することさえも悪いこととして子供に教える。子供が処罰されるばあいで一番多いのは、動物をいじめたばあいである。犬や猫に石を投げた子供が体罰を食っている場面はよく見うけられる。欧米の子供は、小鳥が飛んでくると家にかけもどってパンくずを持ってきてばらまくが、日本の子供は、投げつける石がないかと見回すといわれている。欧米では、子供がもの心のつくころから動物をいじめないことを教え、国によっては動物愛護を幼稚園や小学校の正課として教えている。
 昔、戦争ばかりやっていた時代には、人間は人を殺すことを何とも思わぬどころか、それに快感をおぼえ、殺人が好きになったであろう。いやであったら戦争はできないだけでなく、殺されてしまうからであり、殺人が好きなものほど戦争に強いからである。同じ理由から、残酷も好きになったであろう。いまの人の中には、そういう心が残っている人も少なくない。文明国でさえも殺人が絶えないのはそのためである。つまり、かれらの頭には戦争をやりたがる心がひそんでいるのである。

 
害虫をもあわれめ

 カやノミやハエは害虫とされ、それらを殺すことは当然のこととなっている。しかし考えてみるがよい。かれらには悪意も敵意もない。自分が生きるために、人を刺したり食物にたかったりするので、人に害を加えようとするつもりは毛頭ない。敵でさえも許すべきであるのに、ましてや敵意のないあわれな虫を殺すことは、何とも愛のない仕業である。ハエの拡大写真を示して、いかにも悪魔でもあるかのように思わせるのはもってのほかである。インドではハエを殺さず、ただ追いはらうだけであるが、これは本来の仏教は殺生を第一の戒律にしているからである。
 ハエの動作をよく見ていると、小さな虫にも尊い生命があって、殺せばたちまち生命が消えると思い、 殺す気にはなれない。一茶も「やれうつなハエが手をする足をする」とうたった。カやノミについても同じことがいえる。害虫をいきなり殺す習慣から、たいていの人はどんな虫でもむやみに殺すが、これによって殺生を何とも思わぬ心が養われ、愛の成長が妨げられる。
 アフリカのガボンに乗りこみ、独力で病院を建てて病苦の黒人を救い、大恩人と仰がれたシュバイチェルは、カがさしても殺さなかった。へやに入ってきた虫をいたわり、戸外につれていって放した。かれは、すべて生きとし生けるものの生命を尊敬して大事にする心から倫理が生まれ、平和の基が築かれると、つぎのように述べた。
 「人間が倫理的たるは、ただ彼にとって植物も動物も人間も、すべて生命が生命として神聖であり、いやしくも苦しむ生あれば、これに扶助せんと献身するときのみである」
 会田雄次氏はこの言葉を引用し、「この立場は我々から見ると当り前のことである。『生きとし生けるものへの没我的な愛情』は、我々の周辺の至るところに説かれている。しかもそれは解答や到達点でなく出発点である。それをどうやって具現するか。我々の先達はそのことに苦労したのである」と説いている。
  ヘビはたいていの人が気味の悪い動物として嫌い、見つけしだい殺す人もあるが、ヘビは人間に危害を加えない。ただ日本ではマムシだけが、噛まれると死ぬことがあるが、これとても人が近づくと身を守るために攻勢に出るだけである。ヘビは愛情をもって見ればけっしていやな動物でなく、飼えば人に馴れてかわいいものである。ヘビもあわれんで殺すことはやめなければならぬ。
 カやノミやハエを駆除することは、安眠や伝染病の予防のため止むを得ないが、駆除に当っては、かれらをあわれんでやらねばならぬ。それだけでも、平気で殺すよりははるかにましであり、愛の弱くなることが防がれる。一番よいのは初めから害虫が発生しないようにすることで、これならば、一般人の愛の生長を妨げることにならない。近来、日本では農薬が濫用されたために、ドジョウのような食用になってくれる魚や、人を楽しませるホタルのような虫までも全滅に近くなった。これは人間だけを考えて他の動物の死をあわれまないために、罰が当ったのである。
 要するに、人間が動物を殺すことを何とも思わぬあいだは、愛の成長を望むことはできない。殺人を何とも思わぬ心も頭を持ちあげようとする。これでは平和は思いもよらない。それなのに、平和、平和とさけんでいるのは、噴飯にたえないではないか。
 元立命館大学教授梅原猛氏も「他の生きるものの場所を認めず、おのれの死をも忘れて平気で殺生をする思想によって指導される文明が、どうして人類相互の徹底的殺害という悲劇的運命を避けることができるのか」といっている。

 
天地万物への愛

 愛は動物だけでなく、植物にも及ばねばならぬ。一木一草にも生命があって、動物のように生活を楽しんでいると思うと、あわれんでいたわってやりたくなり、むやみに木を折ったり草を抜いたりする気にはなれない。いわんや植物はさまざまの花で目を楽しませ、心を清くしてくれ、草木の緑や黄葉、紅葉は野山を飾って人を喜ばせてくれる。野菜や果物は、人間の命の大恩人である。
 草をしとねに木の根を枕 花と恋して五十年
 これは偉大な植物学者牧野富太郎先生の歌であるが、先生ほど植物を熱愛した人はなかろう。山野に採集して、不要と気付いた植物は、もとの場所に植えにいったほどである。
 愛は生き物に限らず、無生物に対しても働かねばならぬ。あらゆるものが、生命のないものでも、生命のあるものと同様、その所を得て安心していると思って、いたわって大事にしてやろうという気持にならねばならぬ。そうすれば身辺の器具その他すべてのものも、自然界の山も川も野も海も、太陽も、月も、星も、親しき友となる。天地万物にまで働く光、これこそ真の光であり、それを感じたとき、人間はいっさいの俗念を脱して宇宙と同化し、心が朗らかに、安泰になる。


 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
人の身魂磨きの大切な到達点を述べています。人類愛を語る人は、究極的には生きとし生けるものに対する愛がその心の根底に根付いていなければなりません。「人間が生きるために自然を征服し、生き物を犠牲にする」という西洋的な生活スタイルが、今日の地球の破壊と文明の行き詰まりを生み出しているのです。それは科学の力で解決できるものではなく、人類が地球に息づくすべての生き物に対して愛情を持つようになることが大切であることを教えています。そこまでの悟りに至ったとき、この地球における身魂磨きが完了したと言えるのだと思っています。
 
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