[戻る] 
Browse  
 
 ヨハネ黙示・超解読
 遠藤昭則・著 中央アート出版社
 
 
 『ヨハネヘの黙示』で注目に値するのは、各人のなかに神の都市があり、各人のなかに神があるという主張である。これは、当時のキリスト教徒にとっては異端の教えになりかねないものである。
 しかし旧約聖書には、神がこの宇宙を創られ、最後に人間を創られたとある。つまり神の呼吸、宇宙の律動が入って、生ける人間となる。これは、この宇宙が神によって創られた神そのものの動きであり、人間のなかにそれらの象徴があることを示している。
 ではモーセの場合の神はどのようなものであろうか。モーセはエジプト脱出のとき、さまざまな神の援助を受けたが、どうもその神は創造主ではないようだ。『出エジプト記』を詳しく読めば、創世記の神とは明らかに違うということがわかる。モーセの場合は、他の惑星の人々のことをそう表現しているのだ。
 『エゼキエル書』になると、それはもっと明確になる。エゼキエルがケバル川のほとりで見たもののなかに「人の姿」のものがいたとあるが、これは人間のことであろう。宇宙船のなかにいた人間のことだ。また『エゼキエル書』の第2、第3章に「彼はわたしにいわれた」と、人がエゼキエルに語ったことが記述されているが、第4章になると「主はいわれた」という表現に変わっている。
 このような混乱は、聖書のほうぼうにみることができる。当時の人々は、地球が自転していることを知らなかったし、星がなぜ動いているかなどは考えの外にあった。人々にとっては、天は神が住まい、神が動かす聖なるところだったのである。したがって、天から星のように輝いてやって来る宇宙船は、神の御使いとして崇められた。
 また、当時は現代に比べて、他の惑星の人々は地球にやって来ることが容易であった。というのも、彼らに対し現代のように敵対心をもつ人間がほとんどなく、着陸を妨害されるようなことはなかったのである。しかし、他の惑星の人々は、むやみやたらに地球に着陸したわけではないだろう。彼らは地球人の生活に干渉しようとしたのではなく、援助することが目的だったのだ。
 彼らは自分たちの惑星での生活を、わかりやすく当時の人々に伝えた。それは生き方の基本となる「宇宙の法則に合った生活」であり、「各人の内部にある生命力、宇宙の英知を活用する」ことの大切さであった。現代でもそれに変わりはない。それは、よりよく生きるために、この太陽系内の惑星の人々が取り組んでいることなのであるとアダムスキー氏は述べている。
 新約聖書の時代、イエスはその法則を伝えるためにやって来たのだろうか。『マタイによる福音書』第23章に、次のような表現がある。
 「あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である」。
 では、天である神の国とはどこなのか。イエスは天から「人の子」がやって来るということも話しているが、それはこの大宇宙のことであろう。福音書のなかにある「生きるために必要な天」とは何なのか、『マルコによる福音書』第4章をみてみよう。
 「神の国を何に比べようか。また、どんな譬えで言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる
 イエスは、からし種を人間のもつ信念だと別の箇所で述べている。つまり「思ったことは、強い信念をもってやりとげるなら、必ず実現する」ものであり、そしてそれが神の国のたとえであると話している。これは人間の「思い」の世界、「想念」の世界についていっているのだが、聞いている人間が真に内面からそのことに気づくよう説明しているのである。
 当時は、聞いてすぐに悟る人は多くはなかった。そこでイエスは、すぐに悟ることのできる人に向けてと、理解の遅い人へ向けての、二とおりのたとえを使い分けていたともいわれている。だが聖書に出てくるたとえは、悟ることの速い人に向けてのものが多い。このたとえもそうである。現実に「思い」を実現させている人でないと、非常にわかりにくいものとなっている。
 さて、「思い」を実現させるにはどうすればいいかについては、数多くの人々の発言があるが、共通していることは、必ず実現すると思い込む、「思い」が実現して喜んでいるイメージをはっきり思い描く、そして身体を動かす、の三点である
 よき「思い」は、いい結果を生み出すための原因である。結果の青写真がはっきりとしたものであるなら、いい結果はよりはっきりと生み出される。その働きを司っているのは私たちの内部にある宇宙の意識である。イエスは、この「原因の世界」、「宇宙の意識」を「天」と称したのであるとアダムスキー氏は述べている。
 またイエスは自分自身が崇められることを好まなかったから、人それぞれが理解するように話しているのだ。「あなたたちはなぜ自分のなかにあるものに気づこうとしないのか」という意味が込められているのである。
 ここにこそ、イエスが身をもって人々に訴えたかったことが記されているのだが、深く聖書を研究している人でなければ、この部分を正確に解読することはむずかしいように思われる。イエスが十宇架にはりつけになったという事実が人々に強烈な印象として残っていることと、復活後のイエスについての記述が少ないこともその原因の一つであろう。
 イエスが訴えたかったものは何か。それは、宇宙の意識と一体になろうと努力し、一体になることによって人間は復活できる、新しく生まれ変わることができる、ということである。そのためには、自分が自分自身の心を暴れ馬を御するようにコントロールしていかなければならない。イエスが生きたままあらわれたということは、心も肉体も生きたまま新生できる、しかもそれはだれにでも可能なことなのだということを示している。
 各人に内在する神については、旧・新約聖書のなかに連綿と書き綴られている。『ヨハネヘの黙示』でそれがはじめてはっきりとした形となってあらわれたのである。それは人々にとって大きな衝撃であったに違いない。だから象徴が多用されたともいえる。当時迫害を受けていた人々のなかで、向上しようとする意欲をもった人々に、ヨハネはまずこの書を与えたかったのである。さらには、この書の解読の仕方も伝えていたと思われるのである。
 
 
[TOP]