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 エデンから――超意識への道
 ケン・ウィルバー・著 松尾弌之・訳 講談社
 
 
 実証主義を超えて

 永遠の哲学を簡単に説明すれば、およそ次のように言える。
 何らかの永遠や絶対的至高が存在するが、それは膨大な生きものとか巨大な父親ではなく、また自らが創造した被造物からかけ離れて存在する創造主でもない。むしろそれは、ありとあらゆるものごとの源泉や存在条件である。絶対の至高は有限のものと対比されるべき偉大さではなく、あらゆるもののなかに含まれる存在の真相なのである。
 永遠の哲学に即して考えれば、自然の姿、エネルギーの姿、神の姿はそれぞれ表現の形こそ異なるが実は同じことをいっているにすぎない。
 究極にあるものが巨大な両親のような姿をしており、生まれてきた子どもたちをいつまでも導き見守るというのであれば、そういう思想に立脚する宗教は祈願的なものである。つまり、そのような宗教を信じる者は神から何らかの保護や利益を得ようとしているのであり、礼拝は返礼としておこなわれる。神の法と思われるものにのっとって生きるが、その見返りとして天国で永久に生き続けることを期待する。こうしたたぐいの宗教の目的は単に「救済されること」にある。痛みや苦しみ、悪から救われ、最終的には死からも救われようとする。
 ここで、このような宗教を否定するつもりはない。ただ、永遠の哲学とはまったくかけ離れた思想であり、本書でとるべき見解ではない。永遠の哲学は救済を主張しない。永遠の哲学は、「宗教の目的は救われることにあるのではなく、全なるものを発見することにある」とする。当然その過程で人間は自らのすべてをみつめることになる。アインシュタインは、個々の人間が全なるものから分離されて存在するという錯覚を取り除くのが宗教であるとした。

 人間は、われわれが宇宙とよぶ全体のなかの時間と空間の限られた一部分だ。人間は、自分自身や自分の思想、感覚などを独立したものと考えているがそれは一種の錯覚である。この錯覚は、個人的な欲望や身の回りの者に対する個人的な愛情にわれわれを閉じ込めてしまう一種の牢獄だ。われわれの任務は、この牢獄から脱出することなのだ。

 永遠の哲学によれば、この錯覚を取り除く「全体性の発見」は単なる信仰や教義的なものではない。究極にあるものが、真にすべてを統合する全であり一切を含有するならば、反対に人間の男や女のなかにも全なるものが含まれていなくてはならない。そして、人間には意識があるがゆえに、自らにそなわった全体性を発見する可能性をもっている。
 つまり、究極に目覚めることが可能だといえる。究極にあるものを、信じるのではなく発見するのである。それはまるで波が自らの存在を自覚して自分は大海の一部であると悟った結果、すべての波も海水であり、故に自分と他の波は共にあると考えるのに等しい。
 この精神状態が超絶ということなのであり、別の表現を用いれば啓示、解放、解脱、無の境地、悟りなどとなる。プラトンは同じことを、「洞窟の暗闇から歩みだして存在の光を発見すること」としたし、アインシュタインは「錯覚からの脱出」とした。仏教の瞑想やヒンズー教のヨガやキリスト教の神秘的黙想も同じことをめざしている。
 人間の歴史の行き着く先は最後の審判ではなく究極的な全であり、全なるものはすべての自然の本性を包み込みながら人間の意識の可能性を極大化する。それゆえに、人間の織りなす歴史は究極の目覚めに至るゆっくりとした、しかし苦しみに満ちた道なのである。
 
 
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