[戻る] 
Browse  
 
 どしゃ降りの時代 魂の磨き方
 落合信彦・著 集英社
 
 自分に勝つ

 自分を知るためには、自分の弱さを直視するのがまず第一歩である。それらの弱さの多くは万人に共通している。己に対する甘さ、怠慢、貪欲さ、虚栄心、恐れ、エゴイズム、責任回避、憎しみ、嫉妬心など。これらのひとつも持っていない人間はいまい。キリストさえ悪魔の誘惑と闘いながら荒野を40日間もさまよったのだ。
 かくいうおれは人間的な弱さの固まりと自分自身思っている。しかしそれを認めはするが、そのままで終わるわけじゃない。内部の敵との闘いは常にやっているし、死ぬまでやり続ける。それが人間として生まれてきた証のひとつであると信じているからだ。それは生きている限り終わることはない。
 たとえば自分に対する甘さ。それもともすれば怠慢や自己満足につながる。そうなったら自分の人生の基準を下げてしまうだけだ。しかし、それを成し遂げた人物を、おれは何人か知っている。かつてのF1の貴公子と言われたアイルトン・セナはそのひとりだった。
 1994年5月、彼はサン・マリノ・グランプリにおいて壮烈な死を遂げたが、あの2年9カ月前、おれは灼熱のハンガロリンクで彼と会った。そのとき彼が言ったさまざまな言葉は、今でもおれの胸に深く刻み込まれている。当時まだ31歳だった彼からおれは多くを教えられた。英知は年に関係ないということをつくづく感じさせられたものだ。
 彼は性格的に完全主義者だった。だが完全にはなれないということも知っていた。
 「完全主義という言葉は好きだ。そうありたいと願っている。だが私も同じ人間だ。完全ではあり得ない。ただそうなるよう努めるしかない。それには与えられた状況の中でベストを尽くすこと、極限からの戦いに挑むこと。この考えは私の血の中にあり、性格にしみ込んでいる」
 彼は極限からの努力という言葉を強調した。それは普通の人間の言う努力とは意味が全く違う。
 「単に極限までの努力なら誰でもできる。それでは他の者と変わらない。勝負はそこから始まる。極限をどれだけ超えられるかに、勝負の結果、または人生の成功、不成功がかかってくるんだ」
 これらの言葉だけでも、いかにセナが自分に厳しかったかがわかろうというものだ。
 極限を超えるには努力しかない。しかしときには自分に対する甘さが出て、その努力を怠りたいような気持ちに陥ることもある、と彼は言った。そんなとき彼を奮い立たせるのはごく単純な責任感。F1関係者やチームの人々に対する責任感、レースを見てくれる世界中の人々への責任感、そして自分自身の能力に対する責任感。
 「私はまだ若いし成功もしている。しかし、精神と肉体を今のまま清い状態に保っていれば、まだまだ先に行ける。可能性の限界に挑戦し続ける。それが私自身に対する責任だと思っている」
 限界は誰でも感じる。セナ自身、時にはそれを感じたこともあると言った。だがその限界を新たな挑戦ととらえるところが、彼の非凡さだった。
 「誰にも限界というものはある。しかしその限界は自らの能力を伸ばすことによって克服される。そして限界のレペルを高めていく」
 彼を一言で形容するなら、「とてつもなく自分に厳しい求道者」だろう。そこには自分を知り、自分の能力の限界に挑戦し、そしてまず自分に勝つという精神がある。だからこそF1で世界の頂点に立ったのだ。
 「私は常に最高のレベルに達するということに全てを賭けている。それは自分の弱さ、強さ、そして限界を証明するための終わりのない探求だととらえている」
 その「終わりのない探求」は単にテクニカルなものでは決してなかった。むしろ人間として自らをより高いレベルに押し上げるための探求だった、と言ったほうが正確だろう。この「探求」のために彼はいつも神との対話を怠らなかった。彼の人生最後の6年間は神無しでは考えられなかったと思う。
 彼が神の存在を具体的に意識したのは、88年モナコ・グランプリでの敗北がきっかけだった。あのとき彼は、59周目で2位のアラン・プロストに50秒以上もの差をつけていた。そのとき彼の心に虚栄心が頭をもたげた。プロストを1周引き離してしまおうと思ったのである。
 結果は百分の一秒早くハンドルを切ってしまって、車はガードレールにぶつかって大破。彼はピットにも戻らずそのままアパートに帰って、コース上で起きたことを振り返って自問自答した。
 「強烈な孤独感が私を襲っていた。何かにすがりたかった。気がついてみたら、私は聖書を手にしていた。そして神と向かい合っていた。それまでに感じたことがなかった新鮮さに心が洗われる思いだった。自分に欠けていたのは謙虚さだったということも悟った。私にそれが欠けていたため、私を支えてくれていたチームの全員の期待を裏切り、彼らに多大な迷惑をかけてしまったのだ。それを私に教えてくれたのは神だった。以来、私は神をもっと理解するように努めてきた。理解すればするほど神の偉大さと必要性を感じさせられる。神は私の人生の一部であり、常に心の中に在る。だからといって神に頼るということはしない。信じていれば人間は強くなるものだ」
 「神仏を尊びて神仏に頼らず」と言った宮本武蔵を彷彿させる言葉だ。
  セナと同じような失敗を犯したレーサーは何人もいる。しかし彼らの大部分はその失敗から何も学ばない。ただ技術的な面だけを追っているからだ。セナは技術よりも自分の内なる敵、すなわち虚栄心が失敗の原因だったと悟った。そして神を見た。その瞬間、彼は自分自身に勝ったのである。
 人は皆生きている限り何らかの挫折や苦悩に出会う。挫折を感じたときどうするかでその人間の真価がわかると言われる。心の弱さを最大限に突くからだ。この点についてもセナはポジティヴだった。
 「ごまかしの道を拒否して真剣に生きている者なら、誰しも挫折を感じるはずだ。ただその挫折を表面に出さず自分の胸の中にしまっておいて、自分だけで対処することは大切なことだと思う。自分自身で悩み抜くことも良いし、神との対話によって切り抜けていくこともできる。そうすることによって人間は成長し、神のイメージに近づくことができる」
 「自分の考えや信条を持たず、困難や挫折から目をそらし、毎日をいい加減に生きている人間ほど哀れなものはない。このごく限られた地上での期間を無駄にしてしまっているのだからね。神はそんな人間を創ったおぼえはないと言うだろう」
 「完全な人間などひとりもいない。それを真っ先に認めるのは私だ。しかしたとえ不可能とわかっていても努力し、少しでも完全に近づこうとするのがあるべき人間の姿なんだ。そして、それは真剣に生きることによってのみなされる」
 努力という言葉は使い古されているが、セナほどの人間が使うとフレッシュで、現実味を帯びてわれわれの心に迫ってくる。すべては努力から始まり、その努力には終わりがないということ。自分を見つめ、自分を知り、最終的には自分に勝つということが、「努力」という言葉に凝縮されるのだ。
 
[TOP]