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 人間の事実
 柳田邦男・著 文藝春秋
 
 
 バビロンの黙示録

 1986年4月、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きた。ゴルバチョフ政権が前年に発足していたものの、グラースノスチ(情報公開政策)はいまだ徹底していなかったため、ソ連は当初事故の発生すら隠蔽していた。その後、徐々に事故の概要を公表し、外国の専門家の調査やジャーナリストの取材を受け入れるようになったが、事故の背景になったソ連型官僚主義の実態やソ連型原発の設計と運転の問題点、事故の凄絶さなどの全貌を克明に暴いたのは、旧ソ連のジャーナリストや技術者だった。
 往年のソ連ではとても期待できなかったような、事件の内実を赤裸々に描いたドキュメントが次々に発表され、邦訳されている。それらの作品のうち、『内部告発/元チェルノブイリ原発技師は語る』から、象徴的な情景を記述した文章を引用しておきたい。事故発生の翌日4月27日深夜から明け方にかけてと28日午後の強制疎開の状況である。

 〈4月27日深夜、アントシキン少将は携帯無線を使い、最初のヘリコプター2機を呼んだ。しかし、この状況では地上からの誘導員がいなければ、飛行は無理だった。アントシキンは10階建のホテル「プリピャチ」の屋上によじのぼり、自分の無線でパイロットを誘導することにした。爆発で崩れた第4ブロックと炉の上に立った火柱が、手にとるように見えた。右の方、ヤノフ駅と陸橋の向こうにはチェルノブイリに通じる道路があり、そこには赤、青、黄色と色とりどりの空いたバスが、命令を待ってじっと立ちすくんでいる。縦に並んだバスの列ははてしなく続き、その末尾は朝もやの中に消えていた。1100台のバスはプリピャチからチェルノブイリまでの20キロメートルの道路いっぱいに並んでいる。道路にじっと立っている車両の情景は、重苦しいものだった。
 13時30分、バスの隊列は身震いを始め、前進し、陸橋を渡り、隊列を崩して白い集合住宅の玄関にそれぞれ停車する。それからプリピャチを離れ、人びとを永遠にこの地から運び去るのだ。バスは車輪に無数の放射性の核分裂生成物をくっつけて運び、ニュータウンや都市の道路を汚染することになる……。
  (中略)
 立ち去る人たちと犬や猫など、家で飼っているペットとの別れは、悲劇的だった。猫はしっぽをまっすぐ伸ばし人間の目をのぞきこみ、鳴き声をだした。ありとあらゆる種類の犬が、吠えながらバスの中にかけこんできた。バスから引きずりだされるとき、犬たちは鳴きわめき、咬みついてきた。しかし、とくに子どもらが馴れ親しんできた猫や犬を連れていくことはできなかった。人間の髪の毛と同じように、ペットの毛なみには放射能がいっぱい付いていたからだ。動物たちは一日中外に出ていたのだ。どれくらい放射能を集めたことか……。
 飼主たちから置き去りにされた犬は、それでも長い間それぞれのバスの後を追って走った。だがそれもむだだった。やがて犬たちは取り残され、捨てられた都市に帰っていった。そして大きな群れの中に入ることになる。
 かつて考古学者たちは、バビロンの小さな粘上板に記されていた銘を読み取った。それには「都市で犬が群れをつくるのは、都市が没落し、崩壊する時だ」と記されていた。プリピャチ市は放棄され、何十年もの間、放射能の缶詰になるのだ。ゴースト・タウンである……。
 間もなく銃を持った狩猟隊が組織され、3日間ですべての犬、野生化した放射能だらけの犬を射殺した。……〉

 これはまさに世の終わりの光景である。チェルノブイリ原発事故は、決して“最悪の原発事故”ではなかった。原子炉の炉心が溶融し、核反応の制御が不能になったわけではなかった。発電所のビルが爆発火災で破壊され、放射性物質が多量にばら撒かれたとはいえ、いわば“中程度”の事故だった。“中程度”の事故であっても、このような事態が引き起こされるのである。バビロンの時代の粘上板に刻まれた銘は、現代への黙示録というべきか。


 ★なわ・ふみひとのコメント★
(2011年記)
 
ここで紹介されているチェルノブイリの原発事故と同レベルの事故が、日本の福島で起こってしまいました。しかしながら、社会主義国家だった当時のソ連がとった対応と、民主国家であるはずの我が日本がとった対応は違っていました。日本ではできるだけ事故を小さく見せるために、多くの住民を現地に釘付けにし、放射性物質を浴びるままにしていたのです。たぶん「パニックを起こすと大変だ」という“良心的判断”に基づいて――。放射能の影響を強く受けると懸念される幼い子供たちや妊娠中の女性たちが浴びた放射能の影響が出てくるのは、かなりの時間(年月)が経ってのこととわかっていたからです。「ただちに健康に影響が出るものではない」と、確信犯のようなコメントを出し続けた政府や保安員、およびNHKなど報道機関の関係者を恨むことはできません。彼らも、これから起こる「人間の事実」を十分に予測していたわけではないと思われるからです。元はと言えば、原発の利権そのものに群がってきた「我善し(利己主義)」の人間たちが作り出した「国のカルマ」が、いま終末の時を迎えて一斉に吹き出しつつあると見るべきでしょう。このような悲惨な原発事故が起こらなかったとしても、原発の作り出した国のカルマはとてつもなく大きいのです。
 
 
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