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 春宵十話
 岡潔・著 光文社文庫
 
 
 顔と動物性

 国が子供たちに被教育の義務を課し、それを30年続けてひどく失敗すれば、その国は滅びてしまうだろう。この国では最近概算10年、新学制の下に義務教育の卒業生を出したが、これは明らかに大変な失敗である。顔つきまで変わってしまうほどに動物性が入ってしまい、大自然から人の真情に射す純粋直観の日光は深海の底のようにうすくされているからである。
 教育の結果というものは顔つきに一番よく出るものであるが、そう思ってみると、いま女性の顔は大変なスピードで変化している。人間の顔に動物性が大きく入り込んで来ているという感じである。戦前女学校を出た人と戦後出た人ではかなり顔つきが違う。先日京都へ行ったとき気をつけてみると、最近高校1年生ぐらいから下がまた変わってきたように思えた。
 仏教で因果応報というのは、前の世の報いが次の世に来るということだが、いまの女性の顔の変化は因も果もすでに現世であらわれている。今日やったその結果が今日出ている。これは釈尊でも説いてないことである。まさに超スピードで進化を逆行し、人から動物に変わりつつあるという感じだが、動物だけではすまないで、人造人間を作っているのかもしれない。
 いったいどこへ行くのだろう。決定的な瞬間が近づいているのかもしれない。すべてをいっペん清算してやり直したほうがいいのだろうか。理論物理がアインシュタイン以来20年余りで原爆を探りあてたというのは文化史における一つのドラマで、普通ならこんなに早く探りあてられるものではない。そこに異常な、何か宿命のようなものが感じられる。どうもいまの世相を見ていると、何だか原爆がある使命を帯びて出てきたのではないかとも思えるくらいである。それは日本だけのことではない。しかし、日本は昔から情緒の中心だけは健在だった。それが汚されたら、いったいどこを指して日本というのだろうか。
 差し当りこの女性の顔の変化をどうくいとめるか、まさに未曾有の国難といってよい。くり返すが動物性だけは入れてはならない。他のものと害悪の次元が違うのだ。男性の顔も変化しているのだが、女性ほどは情緒に影響されないだけに、半分ぐらいしか変っていないように見える。
 6月に郷里に近い和歌山県九度山の中学校に招かれていった。そこで、授業を参観させてほしいといって、実は生徒の顔を見たところ、いなかであるせいもあろうが、幸いなことに動物性はあまり入ってなかった。その代わりしまりがないという感じであった。それで私はちゃんとした顔にするためには、もっと礼を入れてほしいこと、ことば使いをもっとていねいにしてほしいことを希望しておいた。そのあとしばらくこの子供たちの顔がちらつき、数学がやりにくくて困った。消そうと思えばとろとろと眠るより外に仕方がないという有様だった。
 動物性があまり入ってなくても、ひどくしまりがないのは困ったものである。天の秩序のもとは礼なのである。敬うことは必要だが、敬うだけでなく礼をすることはさらに必要だと思う。生徒は先生にお辞儀をし、もちろん先生のほうもすべて人の子であるという意味でお辞儀をするべきだと思う。
 いまは礼が見失われているのではないか。私は2時間の講義の途中で中休みをするが、新しく大学に入って来た学生たちは、中休みの間に黒板の字を消しておくということを知らない。
 「衣装して梅改める匂いかな」と蕉門の句にある。およそひきしめるものすべてみな礼に属するといってよい。礼を抜きにすることはなれることであり、ここからやはり獣性がはいってくるのである。
 
 
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