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 魂をゆさぶる禅の名言
 高田明和・著 双葉社
 
 念起こる これ病なり 継がざる これ薬なり

 禅で最も有名な言葉の一つです。
 仏教では、私たちの心は本来あくまでも清らかで、罪など影も落とさず、永遠に続く、と考えます。またこうした“心”に対して、日常あれこれ考えることは、暗黒の海の底にある泥からぶくぶくと浮き出してくる“あぶく”のようなものだとするのです。
 もちろん、科学の問題を考えるとか、経済を勉強するというような頭の使い方はあぶくでも何でもないのですが、「昨日、自分はなぜあんなことをしてしまったのか」とか「今日の失敗がみなに知られて、会社でうまくゆかなくなるのではないか」というように、自分や周囲の人、出来事について考えることは“あぶく”の仕業であって、本来の心のなすことではないと、仏教では考えるのです。
 私たちの本来の心は外界の出来事に即反応します。自動車に乗っていて前を人が横断したらすぐにブレーキを踏むようなすばやい反応が本来の心の反応です。この時に“あぶく”によって他のことを考えたり心配したりしていると、とっさの反応ができず事故を起こしてしまいます。
 禅では、あれこれ思い患わなくても、本来の心に任せて生きれば何ごともうまくゆく――私たちは本来、神、仏のような偉大な心の持ち主だと教えます。これをあれこれ計らうから失敗するのだというのです。
 たしかにほかのあらゆる宗教は「自分より大きなものに任せる」ということを提唱しています。キリスト教の神、イスラム教のアッラーなどが代表でしょう。仏教ではそのように外的に偉大な存在を考えません。そうでなく、私たちの本来の心が神であり、仏だとするのです。
 「おかしいではないか。自分のように嫉妬から人をうらやんでばかりいる人間の心がどうして神や仏の心なのだ」とお思いになるかと思います。しかし、それは本来の心ではないのです。暗黒の海底の泥から浮いてくるあぶくなのです。この暗黒の泥を仏教では無明といいます。根本的無知ともいいます。そして私たちはこの“あぶくの心”を本来の心と間違って行動しているのです。
 では、なぜ無明や根本的無知で心がおおわれているのかといえば、私たちの誕生そのものが両親の煩悩の結果だからで、残念ながら私たちの心は生まれた時から根本的な無知におおわれていたのです。
 しかし、本来の心――永遠に続き、罪など影もとどめない清らかな心が無明のためになくなったというのではありません。月や日の光が雲におおわれているように、妄想(憎しみ、怒り、恐れ……)、煩悩(欲しがり、惜しみ、ねたみ、奪いたい気持ち)という無明の心が幅をきかしているにすぎないのです。
 では、どうすればこのような雲を追い払い、本来の心の光を輝かすことができるのでしょうか。それには、あぶくの心に従って考えたり行動したりしないことです。「あいつめ」と思う心はあぶくの心です。それをやめて、その考えを発展させないようにすると、奥に輝く本来の心が働きだすのです。
 ここに掲げた言葉は「“あいつめ”という気持ちが起こっても、その考えを継いではいけませんよ。“あいつめ”をどんどん発展させてはいけません。本来の心に任せなさい。そうすれば、何もしなくても本来の心がものごとを解決し、うまい方向に行くように計らってくれますよ」という意味です。
 「心に浮かんだ憎しみの記憶は心の病気だ。これを継がずに、そこで終わりにするのがその病を癒す方法なのだ」という、悩みから逃れる方法を説いた言葉です。
 
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