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 念波の時代
 立花之則・著 総合法令
 
 
 何を念ずるか

 まず、何を念ずるかである。何を人生の使命と考え、何を願いとするかである。
 「念ずれば花ひらく」というのは、今はやりの成功哲学とは少し趣きを異にしている。確かに、「心で一心に念じたことは必ず実現する」という意味と、成功哲学の「心で描く強烈な願望は必ず実現する」というのは、表面的には似ている。しかし、何を願望するかという点が根本的に違っているのである。
 私自身、一時期、アメリカ流の成功哲学にかなり心酔したことがあるが、何か物足りなかった。それは、成功哲学の目指す成功が、物質的な繁栄や満足をもたらすとしても、真に深い精神的満足まではもたらさないことがわかったからである。
 もうひとつ、すべての成功哲学が、究極は世界の平和と人類の幸福に貢献することを説いてはいるのだが、応々にして、個人的段階にとどまったり、物質中心、人間中心主義の限界を超えることができていないからだ。富や名誉や地位を得るために、どれほど多くの人がモノやカネに惑わされて道を踏み外してきたことか。
 アメリカ流の成功哲学では21世紀を乗り切ることはできないと思いかけていた時に、坂村真民先生に出会い、「念ずれば花ひらく」の東洋的で仏教的な広大無辺の世界を知った。アメリカ流の成功哲学を超えて21世紀の人生哲学をそこに見たのである。先生の言葉を借りれば、「大宇宙大和楽」の世界である。
 「念ずる」というのは、単にご利益を得るために神仏に手を合わせたり、あるいは神社仏閣に参って、賽銭をあげたり、寄進したりしてお願い事をすることではない。「念」は仏教の根本教義であり、仏数的解釈によると次のようになる。
 「一念」は、念を時間の単位とするものと、念を「思う」の義と解するものと2つに大きく分かれる。後者は、心に思うという意味の「心念」、仏の姿を心に思い浮かべるという意味の「観念」、仏の名前を称えるという意味の「称念」など念の義がさらに細分化され、一念は、一心のこと、疑いなく二心のない信心のこと、一度(ひとたび)の念仏のこと、などの意味となる。要するに、「念ずる」というのは、仏と共に、広くは神と共に暮らすということであり、地球や宇宙のこと、そして世界や人類のことを視野に入れて暮らすということである。
 神仏に無心に手を合わせて念ずることによって、忘己利他の精神が養われる。それは、霊性つまり、仏性や聖性に心を近づけることであり、利己的世界から、超己、超意識の世界へ没入することでもある。そこから、強力な「光と愛と和の念波」が生じるのである。そして、「一念三千」と言われているように、念力によって奇跡が起こったり、願いが一挙にかなえられたりするのである。
 私の場合、念の世界の不思議さを、今つくづく感じている。宇宙の神の意志によって人間界の事象AとBが同時に起こるというユングのシンクロニシティ(共時性)や、念力、神通力、霊力、インスピレーションなどの精神世界のことも、体験を通して、少しずつわかるようになってきた。
 「こころ」と「もの」の間に「意味のある一致」が起こるという原理が存在するというのが共時性である。これは、物質、空間、時間軸を超えて、二つの事象が同時に生起し、しかもその間に意味のある一致があるということである。(中略)
 特に魂に目覚めた時(真我に目覚めた時)には、外から見て超能力かと思われるような力が次々と発現する。例えば、予知、予言、透視、透聴、願望成就、ツキ、ヒラメキ、非凡な創造力などである。これもまさに共時性現象なのである。
 目に見えない念波の存在は、理論や理屈ではなく、体験と証しによってはじめて確信できるようになってくる。決して性急に結果や成果を求めないことだ。一途一心、信じたら最低十年やり続けることだ。神、仏と同じように、念波も目に見えないものだけに、信じ切れるかどうかが大切である。
 
 
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