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 エドガー・ケイシーの
人生を変える健康法
福田高規・著 たま出版
 
 動・反動の法則

 この世界には、私たちがどうしても避けて通ることのできない法則がある。
 それはまたいろいろな名前で呼ばれているが、一つの法則のそれぞれの面を強調しての表現である。
 動反動の法則
 類は友を呼ぶ
 似たものは似たものを生む
 償いの法則
 因果律
 カルマ

 これを(ケイシーの)リーディングは、多くの場合「人は蒔いたものを刈りとるのだ」とわかりやすくいい、また「カルマ」とは「自分に出会うこと」であるとしている。これは自分が他の人にしたとおりのことが、後に象徴的にも実際的にも自分に返ってくることにより不調和に気づかされる因果律のことで、特に次の生涯に持ち越されたものを「カルマ」という。
 「存在」という唯一で無限の生命エネルギーの一部である私たち実体は、父である生命エネルギーの心や意志に反逆することも従うこともできる自由な意志を与えられ、地上では、活動する力である「心」を借りうけて用いながら、その表現体として存在している。こうして生きている地上での生活の一瞬一瞬に、どんな理想、体験、機会をもち、それに対してどう感じ、どう思い、どう行動したかによって、いつの日か刈り取らねばならない種を蒔きつづけているのだ。
 そして父である生命エネルギーの最大の関心事は、子として父の御心をどのくらいうまく表現したか、子供同士いかに調和、協調して生活しているかである。
 このところはオーケストラにも似ている。父なる生命エネルギーが指揮者であり、私たちはそれぞれの楽器(身体)の演奏者(心)である。指揮者は「愛」とか「調和」とか「忍耐」という曲目を演奏したいと考え、私たち奏者は自由意志によって自由な発想で演奏することができる。
 そしてそのハーモニーやメロディーを楽しむのは指揮者と私たちであって、他に聴衆はいないのだ。今のところこの地球のオーケストラは指揮者のことなどすっかり忘れ去って、ギーギー、ガーガーとひどい音を出している奏者もいれば、あげくのはてに楽器をこわした人、演奏することさえいやになった人もいる。
 私たちが出している音がすべてを語っていて、全能の指揮者は、誰がどんな音を出しているのか、楽器の状態から演奏者の様子まで、すっかりお見通しである。私たちは今この瞬間にも音を出しつづけ、その音楽を聞かされている。すなわち、蒔いた種を刈りっているというわけである。
 そして結局指揮者の指揮に合わせられたときが良い演奏ができたときであり、また上達したときでもある。それは、自分の意志を、私たちの全てを包む唯一で無限の生命エネルギーの御意志に合わせようとする魂によってのみ達成される。それ以外には、何代にもわたって延々と続いていく原因と結果の拘束の外に出る方法はない。
 そこで私たちの誰もが、いつの日か、自分たちの故郷に帰るために、自分の意志で行為するカルマの道を離れて、御意志を行なうという「全託」とか「帰依」といわれる道をたどるのである。
 
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