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 精神文明と奇跡
政木和三・著 日新社
 
 精神の作用と反作用

 我々の周辺のあらゆる現象は、作用あれば必ず反作用があり、作用と反作用は一対となっている。二つの物体が衝突すれば、衝突された物体に作用が起こり、衝突した物体にも反作用が起きることとなる。
 たとえば、大砲を打った瞬間に砲身が後退している映画があるが、これも火薬の爆発によって弾丸が前に飛び出してゆく作用により、それを受けている砲身がその反作用によって後退するものである。これは引力のある地球上だけではなく、引力の全くない宇宙空間においても同じことが起きる。人工衛星の方向修正、軌道修正、あるいは無重力空間にいる人達は、ジェットの噴射によって自分の位置を任意の場所に運ぶことができる。このようなときは固定点がどこにもなく、足をふんばるところもないが、止まったり、動いたりすることができる。宇宙映画の中では、宇宙船外に出た人達が、ジェットによって上下左右どちらの方向にでも自由に、まるで夢の中のできごとのように動いている。
 この作用と反作用は、一般の物体だけではなく、人間の精神面にも同じような作用が起きているものである。心の中で、Aさんはどうも虫が好かない、しかしおつきあいしていかねばならない、という自分の不満を押さえて顔にだけ笑みを浮かべてお上手を言っていても、その心の作用は当然Aさんの胸に伝わっていく。Aさんも、この人は何か気の合わぬ人だと思いながら、うわべだけのおつきあいをすることになる。これが反作用である。
 自分の心の中で、私は寂しい、私ほど不幸なものはないと思い続けていると、その人に近づいてくる人は皆そのような気持ちを持った人ばかりになる。不幸だ、自分ほど不幸なものはないと思い続けている人の傍らへは、明るい、ほがらかそうな幸福な人は近寄れないものである。これも、自分の心の中にある寂しさと、不幸と思う気持ちの作用が周辺に伝わるために、その反作用としてほがらかな人は近付かず、不幸な人達の集まりとなる。日本のことわざにある「類をもって集まる」のたとえ通りとなる。
 姑と嫁の仲においても、年よりのくせにと嫁が思い、姑は若い者がいばってと、お互い反目し合ったとき、その仲は永久に解けることがないが、一方が「いくら憎しみ合ったところで、一緒に暮らしていくのだから何も思うまい」と、心を持ち直すと、もう一方も自然に打ちとけてくることになる。
 自分の人間性が板のように薄い平板であれば、自分に正面から当たってくる物をすべて反射してしまう。その反射は、自分にも衝撃となるが、相手にも大きな衝撃を与えることになる。ところが、自分が丸い人間性となれば、正面から来たものも、背面からきたものも、上方または下方からきたものも、すべて円の中に吸収し、内部で何回か反射した後に、その一部分を外部に出すことになり、自分はショックアブソーバーとなり、自分自身にも衝撃は少なく、さらに相手に対しては、何の衝撃も与えないことになる。このことが精神の作用と反作用を意味するものである。
 この世の中には反目しあっている人が多い。他人はほっておいて、自分だけ丸い人間になってみようではないか。自分ひとりだけが円満な人間になる。ただそれだけで、世の中のすべての人が円満な人間になってしまうことになる。他人はよい、自分だけが一刻も早く円満な人間になりたいものである。
 人は自分の心の形を知るべきである。自分の心がわからなくては治しようもない。自分の心がわかれば、自分の意志によって自由に変えることができる。
 自分の性格が変わると、相手の人の性格が変わったようにも見える。相手の人間性を変えようと思えば、まず自分の性格を変えることが早道である。
 
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