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 運命を創る
安岡正篤・著 プレジデント社
 
 精神を溌刺とさせる三つの心がけ

 まず我々の身心摂養法の第一着手は、やはり先哲の言う通り養神です。「神」とは深く根本的に指して言った「心」のことで、「養神」とは心を養うことです。心を養うには「無欲」が一番よいと古人が教えております。これを誤って、我々が何にも欲しないことだと寒巌枯木(かんがんこぼく)的に解しては、とんでもないことです。それならば死んでしまうのが一番手っとり早い。ぼけてしまうのもよいことになる。そういうことを無心とか無欲とかいうのではない。
 そうではなく、我々の精神が向上の一路を精進する純一無雑の状態をいうのであって、平たくいえば、つまらぬことに気を散らさぬことです。我々の精神は宇宙の一部分であり、宇宙は大きな韻律です。したがって我々の精神も、やはり溌刺として躍動しておらなければなりません。
 我々の一番悪いこと、不健康、早く老いることの原因は、肉体より精神にあります。精神に感激性がなくなることにあります。物に感じなくなる、身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、向上の大事に感激性を持たなくなる、これが一番いけません。無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、低俗な雑駁から解脱することにほかなりません。
 それではどうして精神を雑駁にしないか、分裂させないか、沈滞させないかというと、無数に古人の教えもありますが、私はこういう三つのことを心がけております。
 第一、
心中常に喜神を含むこと
 どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥の方に喜びを持つということです。実例で言えば、人から膀(そし)られる、あられもないことを言われると、怒るのが人情であるが、たとえ怒っても、その心のどこか奥に、「いや、こういうことも実は自分を反省し錬磨する所縁になる、そこで自分(という人間)ができていくのだ、結構、結構」と思うのです。
 人の毀誉褒貶(きよほうへん)なども、虚心坦懐に接すれば、案外面白いことで、これ喜神です。今、日本は非常な苦痛を嘗めている。今後ますます甚だしくなるかもしれぬ。これを鬱々すれば、人の健康にも大害があるが、これに反して、いや、どんなに苦しくなってもかまわぬ、今までの日本は少し甘すぎたから、少しはひどい目に遭って、たとえば東京や大阪が焼き払われたが、なあに敵国人が手弁当でやって来て、始末の悪くなった大都市の整理をしてくれたのだというふうにはらを決める、これも一つの喜神であります。
 その次は、
心中絶えず感謝の念を含むこと
 有り難いという気持ちを絶えず持っておること、一椀の飯を食っても有り難い、無事に年を過ごしても有り難い、何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つことであります。
 第三に、
常に陰徳を志すこと
 絶えず人知れぬ善いことをする、どんな小さいことでもよろしい、大小にかかわらず、機会があったら、人知れず善いことをしていこうと志すことであります。人間には、どうも報償的な気持ち、どんな悪党でも悪いことをしたならば、何かそれを埋め合わせる善いことがしたくなるものです。でなければ良心が納まらぬ。
 そこで泥棒をすると、貧民を賑わしてみたり、兄弟分に分配したり、不義の財、不浄の銭を掴んだ者ほど何か人目に立つことに寄付をします。国防献金をやって、まあまあこれでよいというような者も少なくありません。そういうことではなく、何か人知れず良心が満足するようなことを、大なり小なりやると、常に喜神を含むことができます。道教などは、これをやかましく教えています。
 
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