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 超心霊学
小田秀人・著 池田書店
 
 アインシュタインの宗教観

 アインシュタインが一流の科学者たちと連名で、原子力を戦争に使わぬようにと遺言したのは、単なる道学者的平和主義からではありませんでした。彼には、彼一流の宗教観があったのです。曰く。「われわれの脆弱な知能によっても、極微なるものの中に顕現されている無限最高のスピリットを認識することができる。これを謙虚な心をもって嘆美することが私の宗教である」
  また曰く。「もっとも美しい、そしてもっとも深い情操は、神秘なものからうける実感中に存する。このような感動を知らず、驚異も畏敬の念をも感じ得ないものは、死者に等しい」
 この無限最高のスピリット――霊性、神性は、ひとり極微の中だけでなく、無限大の天空の中にも、また目前の自然現象の中にも、またわれわれの平凡な日常生活の中にも、歴々として顕現しているのです。朝目がさめてパッと肉眼を開けばたちまちにして見覚えのあるわれわれの世界が展開されるように、ひとたびほこりを払って心眼を開けば、その同じ自然の中に、光り輝く無限の新しい色彩が発見されるのです。
 同じ一通の手紙でも、開くにもものうい悩ましい請求書もあれば、封を切る手もおののくばかりの心づくしの愛の便りもあります。大神宮に詣でるまでもなく、目前の風物、近隣のざわめきの中にさえ……なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる――敬虔の心を持ちうる人は幸いです。大自然の御手から常住坐臥、愛の便りを受けつづけているからです。

 
大自然の根元は心の作用

 大自然を創造し、生かしている根元の力は「こころ」の働きであり、意識作用です。この宇宙的大意識作用が、神の心であり、力であり、全体としてみればそれがそのまま「神」そのものなのです。
 かけ出しの科学者は「私は人間を研究しつくし、神秘の扉をあばきつくした」といいます。彼は手足のあることなど至極当然として、なぜ手足があるのか、どうして手足が動くのか、どうして手足ができたのかをただの一度も疑ってもみず、またありがたいとも思っていないのです。疑うだけの知恵が、驚くだけの感覚が、感謝するだけの感情が、彼にはまだ発達していないのです。
 手というものは、もともと手も足もなにもなかった原始単細胞動物の中にすでにこもっていた「つかむ心」が次第に進化、発達し、何億年かの間に遺伝し、固定して現在のようにでき上がったものです。足も五官も五臓六腑も、みな同様な経路をたどったにすぎません。つまり、人間そのものが、単なる「生きる心」の実現、物質化にすぎないのです。ほとんど無に等しいところから、この複雑微妙な機能、器官が進化発達したのです。これが神秘でなくてなんでしょう。人間だけでなく、一切の動物、植物、鉱物までも、すべてが大自然のこころ、神の念の実現であり、物質化作用の進行過程にすぎないのです。

 
自然がモノをいう

 古来天に口なし、人をもっていわしむ、といわれています。ところが、さる霊覚者によれば、自然がモノをいい、墓石がモノをいう、ともいわれます。これはどういう意味でしょう。
 自然の中には無数無限の心の波が相交錯しています。ラジオやテレビ、放射能や宇宙線等々の人為的、自然的波のほかに「心」のある波が無数に交錯しているに違いありません。生者の心、死者の心、自然霊の心、そして大自然を創造し生かしめている神の心等々。
 われわれは、受信装置いかんでいかなるラジオもテレビも無電も受け取ることができるように、心のかまえいかんによって、いかなるよき霊にも悪しき霊にも、また高き霊にも低き霊にも通じ、感応することができるのです。つまり応答自在なのです。
 大自然の本源が心であるということは、いかにも神変不可思議であり、ありがたくもあり、怖くもあるわけです。同じ神がときに観音様に見え、また閻魔様にも見えるのです。それもこれも、われわれの心次第です。このありがたい電気でも、下手をすれば真っ黒焦げになって、大怪我をさせられるのと同じことです。
 
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