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 生命思考
石川光男・著 TBSブリタニカ
 
 
 森狙仙の三匹のサル

 江戸時代の中期から後期にかけてサルを描かせれば当代一と謳われた森狙仙(そせん)という画家がいた。狩野派の画風から出発し、円山応挙の画風も採り入れ独自の画風をつくり上げた画人として知られる。
 あるとき狙仙が三匹のサルを描き、自信をもって展覧会に出品したところ、見に来ていた当時すでに大御所だった応挙が「このサルの絵だけはいただけない」と酷評した。狙仙はムカッとして「いったい私の絵のどこがよくないのか」と応挙を問い詰めると、応挙は「ここには三匹のサルが描かれている。しかし私の目に狂いがなければ、これは一匹のサルを見て、姿形を変えて描いたのだろう」と断じた。一匹のモデルを三匹に描き分けたにすぎないと応挙は言うのであった。さらに応挙はこうも批評した。
 「あなたの描いたサルは自然の中のサルのように見せているが、やはり私の目に狂いがなければこのサルは飼いならされており、野生ではない」
 森狙仙は真っ青になった。応挙の指摘は全く正しかったのである。狙仙は満座の中で恥をかかされて逃げるようにして家に帰り、「自然のサルが本当に描けるようになるまで家には帰らない」と奥さんと子どもを残して山にこもってしまった。
 それから数年して戻って来た狙仙は再びサルの絵を描き、自分の名を伏せて出展した。そのときも円山応挙が見に来ていた。狙仙は応挙がどう言うか身を堅くしていたところ、「これは実に美事な絵だ。サルが生きている。この絵は森狙仙だ」
 と応挙はうめくように激賞したのであった。
 実はこの話は「花吹雪野猿の図」という講談の一節であるが、興味深いのは応挙がサルは一匹ずつちがう生き物であるということを見抜くところにある。
 生命体というのはたとえ種は同じでも一つ一つが個性を持っており、一つとして同じではない。サルもマウスもアリも集団としてみれば同じ個体であるが、一匹ずつ見れば微妙に異なっている。外見だけではなくそれぞれの個性の差であり、これが生命体の特徴なのだ。
 ところがこれまでの科学は、たとえば人間を見るときはすべて同一という捉え方をしている。だから新薬でも百人とか千人に試供し、八割に効けば有効とされる。一人や二人に副作用が出てもそれは無視されるか軽視されるのである。統計的に有効、無効を決める方法は人間の個性を考えているとはいえない。

 石垣には個性と協調性がある

 しかし個性だけを強調していたのではバラバラになってしまう。城の石垣を思い浮かべてもらいたい。天然にある石を使って見事な建造物に仕立て上げられている石垣には、一つとして同じ大きさ、同じ形の石はない。しかもセメントも使わず、スキ間だらけなのに丈夫で崩れない。本丸や一の丸が焼け落ちても石垣は百年、二百年の年月にもびくともしないのである。
 石垣に対応する西洋の建造物はレンガ造りであろう。同じ形、同じ大きさのレンガを使ってスキ間もなく理詰めで造られている。頑丈そうに見えるが、レンガを使ったブロック造りの建物が脆いことはよく知られている。
 石垣は東洋の発想である。異なった個性を一つにまとめ、強固な全体を形づくる考え方が石垣を生んだのである。東洋の自然主義とヨーロッパの合理主義とのちがいは石垣とレンガ造りに象徴的に出ているように思う。バラバラに見える石が石垣になると、まるで意志を持っているかのように一個ずつが別々の役割を持って全体のバランスを保っている。石垣が美しいのは個性と全体のつくり出すハーモニーによるのだ。
 生命体についても全く同じことがいえる。細胞にしても一つとして同じものはなく、それぞれが役割を担っている。たとえば赤血球はヘモグロビンをつくる役割を与えられ、筋肉細胞は弾力性のある筋力をつくる役割を持っている。異なった役割を持った細胞があるからこそ全体をうまくまとめているのである。
 
 
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