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 安心録「ほどほど」の効用
曽野綾子・著 祥伝社
 
 人生は平等でも公平でもない

 個人の権利ということもそろそろ見直されるべきであろう。戦後、個人の権利が守られることこそ最高のものだ、と言われたが、必ずしもそうでもない価値判断もあるのである。なぜなら、強力な肉食獣が多いアフリカの自然で、か弱い羚羊(かもしか)が生きるためには、群の力を借りなければならない。それと同じで、人間もまた集団で自衛しないと個人の安全や生命さえ全うできない。つまり個人の権利をいささか犠牲にしてでも集団の利益を考えなければ、生命の安全はもちろん、日常生活の便利さえも確保できないことが多い、ということを認識した方がいいのである。
 自己犠牲は天皇制や権力者の存在に結びつくなどという古い観念にしがみついていると、広い意味で自分も他人も生かすことができないのである。もしできうれば、他人の権利はできるだけ認め、自分の権利はできるだけ棄てることができるのが、最高の徳なのだが……そんなことを今の時代に言ってみてもとても理解されないだろう。しかし現実はそうである。
 人間は平等である、という言葉も、長い間あまりにも安易に使われて来た。私たちは人間が平等であることを願うが、事実は決して平等でないし、運命もまた人間に公平ではあり得ないということを、親たちも教師も、決して容認しなかったのである。
 人間を平等に扱う、人間に平等の運命を与えるなどということは、実際の問題としてできることではない。その最もいい例が、若くして死ぬ子供たちの存在である。どうしてその子が、何も悪いこともしていないのに、人並みな人生を送れないのだろう、という疑問に答えられる人は一人もいないだろう。信仰があれば可能かもしれないと思われるが、私は今ここで信仰を前面に出すようなことだけはしたくない。
 むしろ人生は不平等である、という現実の認識を出発点として子供たちに教えるべきであろう。そこから、私たちはおもしろい脱却の知恵を学ぶのである。不公平、不平等は現世になくならないものだ、と認めた時、人間は次のように考える。つまり人間は、運命にも能力にも差があるのだが、制度によってできるだけ同じような程度の生活ができるようにしよう、と考えるのである。そして使命としては「多く受けた人は、多く返す」というルールを受け入れることになる。運動に秀でている人はその運動神経で、人より美貌に恵まれている人はその美しさで、人より数学ができる人はその才能で、社会に尽くし、それを使命と思い、奉仕することを当然と思うことである。平等でない運命を、しっかりと使う方法を考え出したのが、人間の知恵というものであった。
 今、人たちが挫折感にうちひしがれており、未来に暗澹としたものしか感じられないというのは、これらの土台のところで、時代にも現実にも則さない先入観を、無理して必死に持ち続けようとしているからだろう。それが人道的な態度だと思い、自分は悪者になりたくないから、現実の姿にではなく、理想の姿に自分を無理やりに合わせようとしているところに、足場のない空虚な不安が露出してきたのである。
 道徳的判断をする前に、まず現実を見ることだ。そしてしなやかな心で、既成概念を絶えず塗り替えることだ。それこそがほんとうの勇気だろうと思う。
 
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