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 自助論
サミュエル・スマイルズ・著 竹内均・訳
三笠書房
 
 
 金に対する誤った「愛情」

 世間には、財を貯めこむことだけを生きがいにして金もうけに奔走する人間もいる。確かに、身も心も金もうけに捧げつくせば、十中八九金持ちにはなれるだろう。頭を使う必要などはほとんどない。稼ぎより支出を少なくしてケチケチ貯えていけば、やがて黄金の山も築けるというわけだ。だが、ジョン・フォスターはこんな話をしている。
 ある若者が放蕩で身を持ち崩し、親譲りの財産を使い果たしてしまった。万策つきた彼は、自殺を決意して家を飛び出し、近くの高台に登る。そこからはかつて彼の所有していた地所が見渡せた。彼は腰を下ろしてしばらくもの思いにふけっていたが、やおら立ち上がった。あの土地を再び取り返そうと決意したのだ。町へ戻った彼は、石炭運びの仕事を始め、わずかずつではあるが金を貯めこんだ。しだいに貯えが増えると、今度は牛の売買に手を出し、後にはもっと大きな取引を始めた。そしてついに彼は、かつての地所を取り返してもまだ余りあるほどの大金持ちになったのである。
 しかしながら、彼はとほうもない守銭奴の一生を送った。やがて彼は死に、埋葬されたが、それは土くれが土に戻っただけのことだ。これだけの決意のできる人間なのだから、もっと高邁な精神さえあれば、自分のためだけでなく人のためにも尽くせたにちがいない。だが彼は、結局のところみじめな一生を送り、みじめに死んでいったのである。
 悪いのは金そのものではない。金に対するまちがった「愛情」こそが諸悪の根元なのだ。このまちがった愛情は、心を萎縮させる。そして、寛大な生活や高潔な行ないに対して精神を閉ざす原因となる。

 
「ひょうたんザル」の教訓

 世俗の成功は、金をいくら貯めたかではかられる。この成功は、確かに目もくらむほどすばらしいものに映る。誰もがそれを多少なりともほめたたえるが、それは無理もない話だ。
 利口で、根気強くチャンスを抜け目なく狙っている人間なら、上手に世渡りをして成功を収めることも十分に可能だろう。しかし、そのような人間が常に立派な人格と善良な資質を持っているかといえば、いちがいにそうとはいえない。ものごとの道理は金より大切であるが、その点を少しも理解していない人間でさえ金持ちにはなれるのだ。富は人間の道徳的価値の証明にはならない。
 金の亡者となりはてた人間を見ていると、欲張りなサルの話が思い出される。
 アルジェリアのカビール地方の農夫は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っこみ、米粒をわしづかみにする。そして握った手をそのまま引きぬこうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農夫に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。これは、まさしく人間の戯画に他ならない。この話の持つ教訓は、われわれの生活にも広く当てはめて考えることができるだろう。
 だいたいにおいて、金の力は過大評価されている。世に役立つ偉大な業績の多くは、金持ちや寄付金番付に名を連ねた人間ではなく、財政的には恵まれない人間によって成し遂げられてきた。偉大な思想家や探検家、発明家、そして芸術家に大金持ちはいないし、むしろその多くは、世間的な境遇の面からいえば貧しい生活を強いられてきた。
 もちろん、金持ちにも正しい精神を持った人間はいる。そのような人は、怠惰をめめしいものとして一蹴するだろう。富や財産につきまとうそれなりの責任を自覚すれば、もっと立派な仕事をめざすようになるかもしれない。だが、いかんせんこうした例はほとんどないのが世の常だ。
 
 
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