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 ゴーイング・ウイズィン
シャーリー・マクレーン・著
山川紘矢・亜希子・訳 地湧社
 
 私たちは記憶が一時的に肉体化したものである。

 瞑想をしていると、私は自分が宇宙とつながり、時間がなくなってしまうのを感じた。“現在”に私は完全に浸りきっていた。その結果、私は自分がすべてのものの一部であり、同時に、あらゆる所に存在していると感じることができた。こうして、私は以前よりもいっそう生産的に仕事ができるようになった。時間までにやれるかどうか心配してストレスで疲れ果てるかわりに、大宇宙とつながることによって、豊かな活力を与えられたからだ。この不思議な考え方はニューエイジの科学の核心をなし、さまざまな実験が行なわれ、純粋理論の最も高度なテーマになっている。
 しかし、たましいを計量することはできない。たましいの体験の無限の広がりについて述べるためには、今までとは違う新しい言葉が必要である。
 瞑想中に起こるさまざまな体験に浸っていると、過去も未来も、現在と同じように現実的なもののように感じられる。過去や未来に属する時と場所で体験した感情がはっきりと思い出され、しかも、それが今、起こっているように感じられる。
 そのようなことが起こると、すべての時は今、同時にここに存在しているということに気がつく。他の言葉で言えば、私たちの時系列の時間の体験とは、限られた瞬間に、私達が興味を持っている物事に意識を集中できるように一か所に焦点を絞っている体験なのだ。実際、ちょっと焦点をずらせば、意識を広げることによって、その時間に、別の時、別の空間を体験できるのである。
 このように考えると、時系列的な輪廻転生(次々に順番に転生を繰り返すこと)は事実ではなく、私たちが意識を向けることに決めた転生を、今、体験しているということなのだと思う。だから、現在私たちが送っている転生は、自分の好きな転生のひとつに焦点をあてているにすぎない。それは、他の進行中の転生と、同時にここに存在している。ただ、私たちは“今”に焦点をあてているということなのだ。
 体を例にとって、このことを説明してみよう。私は自分が胴と手足からなる体を持っているのを知っている。しかし、もし、私が自分の意識を右手にだけ集中し、焦点をあてると、私は自分の体の残りの部分に対する意識を、右手に集中する度合いに比例して失ってゆく。しかし、それは、体の残りの部分が存在していないということではない。ただ、その時、体の他の部分へは注意を向けていない、というだけである。右手は現在の転生にあたる。この転生は、私が焦点をあてているから存在しているが、これは、私のたましいのその他の体験が同時に起こっていない、ということではない。
 あるいは、次のように考えることもできる。もし、アインシュタインやアラン・アスペクトなどの物理学者の「すべての時は同時に生じている」という考え方が正しければ、たましいの体験も、またその通りなのだ。
 このような考え方に出会った時、私は大変なショックを受けた。もし、すべての時が同時に生じているとすれば、“今”、この時に生じている問題は、それがその“前”に起こったことの結果であるという点を除けば、それほど重要ではないのだ。カルマの法則の意味もはっきりし始めた。つらい体験の本当の原因を時をさかのぼって見つけ出すことも、原因結果の法則が完全に働いていることを見ることもできるのである。
 すると、
カルマが決して罪の報いではないことに気がつく。最初、自分が外に発したことが、また自分に戻ってくるのを体験しているだけなのだ。私たちが外に発したエネルギーは、結局いつかは、ブーメランのように戻ってくる。すべての時、すべてのエネルギーは同時に存在するのだから、私たちはその中から自分が体験したいことを選び、それに焦点をあてるのである。つまり、これが自由意志なのだ。
 それゆえに、私たちは自分自身の現実を選択し創造しているという時、その意味は、巨大なありとあらゆるエネルギーの渦の中から、
私たちは自分が必要なことを学ぶために、最も役に立つ体験を選び出している、ということなのである。
 
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