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 幸福は幸福を呼ぶ
宇野千代・著 海竜社
 
 幸福は幸福を呼ぶ

 人はよく、家庭内の悪いことは伝染する、と言いますが、あれは間違いです。加速度をもって伝染するのは、家庭内の幸福なことばかりです。幸福とは、どういうもののことでしょうか。それは気持ちよく、人の心を包むもののことだからです。

 人が聞いたら、吹き出して笑って了うようなことでも、その中に、一かけらの幸福でも含まれているとしたら、その一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行く。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っているけれど、世の中には、幸福になるのが嫌いな人がいる。不幸でないと、落ち着かない人がいる。
 「まあ、聞いて下さい。私はこんなに不仕合わせなのよ」と話す人がいる。私はそう言う人の話を聞くのが、苦手である。聞いている間に、その人の不幸が伝染して、私まで、不幸になるような気がするからである。
 これは、私が、利己主義者で、人の不幸に無関心でいたいからでは決してない。その人の不幸は、実はほんとうの不幸ではない。不幸だ、とその人が思っているだけのことだからである。無意味に人の不幸に感染するのは、利口なことではない。紙一重の違いであるように見えて、この二つの間には、実に大きな違いがある。
 幸福も不幸も、ひょっとしたら、その人自身が作るものではないのか。そして、その上に、人の心に忽ち伝染するものではないのか。とすると、自分にも他人にも、幸福だけを伝染させて、生きて行こう、と私は思う。那須の家の庭に、苔が生えたのを見ても、幸福である。いま、すれ違っていった人の笑顔を見たのも幸福である。幸福は忽ち伝染して、次の幸福を生む。自然に生む。

 人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。何を好んで、不幸な気持ちの伝染、不幸な気持ちの反射を願うものがあるか。幸福は幸福を呼ぶ。幸福は自分の心にも反射するが、また、多くの人々の心にも反射する。
 むかしの話に、花咲爺さんと言うものがある。一人の、頭に頭巾を冠った、人の好さそうなお爺さんが、木の上に登って、その木の上から、ぱっぱ、ぱっぱと幸福みたいな花をばらまいている絵を、私たちは子供のときから見馴れている。あれはただ、花咲爺さんばかりであろうか。花咲爺さんと言うものがあるとしたら、もう一つ、花咲婆さんと言うものも、あっても好いのではないか。私は木の上にまたがっている。片手に大きな笊(ざる)を抱えて、その笊の中には一ぱいに、「幸福」が詰め込んであって、私はその幸福を、まるで花でも咲かせるように、ぱっぱ、ぱっぱと木の上からばらまくのである。ああ、そのときの私の心の中にも新しく生まれ出た「幸福」の気持ちの有り難さ。
 私はもう、花咲婆さんになり切っている。私の抱えている笊の中一ぱいに、「幸福」の花が詰め込んであるからだ。たったいままで、枯れ枝のままであったかも知れないその木は、忽ち、幸福の花が咲いて、眼も眩いほどの花盛りになったからだ。
 
 自分の方から進んで、その日の来る方まで歩いて行く。自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないかと、思うからである。
 
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