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 真説 死後の書
日向美則・著 祥伝社
 
 
 死後の世界を構成する幽質分子

 魂が現界を離れて最初に入るのは幽界である。しかし、死者は、最初は自分が死んだことに気がつかない。その一つの理由は、幽界があまりにも現界に似ているからである。
 現界が物質分子でできているように、幽界の自然や事物は、幽質分子で構成されている。幽体をもって幽界の大地を歩けば、肉体をもって現界の大地を歩くのと同じ感じがする。空行く雲、流れる水、野辺の花、森の木、すべては現界と変わりがない。しかも、全体の風景まで現界のかつて住んだ環境とそっくりだ。これでは、帰幽者が自分が死んだという気がしないのは当たり前である。
 幽界は、現界と霊界の間にあるさまざまな界層の総称で、大きく2種類に分類できる。霊界にかなり近い上位の界層と、そこに入るまでの待合室のような下位の界層とである。前者に相当するのがスウェデンボルグのいう精霊界や、心霊科学でいう第2界層(中間世界)、第3界層(夢幻界)である。いずれも中間的な界層で、霊魂にとってはあくまで一時滞留の世界である。
 いずれの帰幽者もそう長くは下位幽界に留まることはなく、2〜3日から50日まで、長くて30年どまりである。しかし、中には100年、あるいはそれ以上も下位幽界にうろうろしている者もある。これはむしろ例外で、霊魂の浄化に手間がかかっているのである。
 幽界や地獄はちょうど洗濯機のようなものと思えばよい。汚れた人間を洗濯機の中に投げ込んでまわしているうちに浄化される仕組みである。

 幽界の環境は、心に相応して現われる

 幽界は、地上で蒔いた種が芽を出すところでもある。疑い深い人、自殺者、発狂者などは、幽界でも人里離れたうす暗い谷間のような場所に住む。それは、心に相応して環境が現われているのである。スウェデンボルグは、幽界、霊界では、姿や環境は心に相応して現われると述べている。
 死後の世界では、現世の心(意志や愛情)がそのまま持ちこされてゆく。現世では、外面と内面の心が異なっていても、他人にはわからず、そのまま通用するが、他界では、心に相応して善悪の世界が具体的に現われてくる。もし地獄的な心を持っていれば、地獄のような世界が現われる。これに対し、天界的な心を持っていれば天界のような世界が現われる
 スウェデンボルグによると、地獄的な心と天界的な心は対極をなしていて、前者はすべての発想が自己中心的であり、後者は自己犠牲、仁愛、他人への奉仕などの心が特徴的になっているという。天界的な心というのは、他人が幸福になり喜ぶのを見て、わが身の幸福を感じることができるというセンスであり、地獄的な心とは、他人はどうでもよい、むしろ他人は蹴落としてでも、自分が得をしたい、頭角を現わしたいというセンスである。他人を虫けらのように思っている人間がいるとしたら、死後の世界では、自分が虫けらのような境遇や運命にはまりこんでしまうであろう。
 要するに、死後の世界では、本音と建て前が両立しないので、建て前ばかりの人間は死後おおいに苦しむのである。幽界、霊界は心がそのまま外部に表象されて現われてくる世界なのだ。

 幽界の念は固定する

 現界で戦死した兵士は当初、幽界でも戦争を続けようとする。ビルの屋上から飛び降り自殺した者は、幽界でも何度も飛び降り自殺を試みる。飛び降りて死んだと思ったのにまだ生きているので、もう一度ビルの屋上へ上がってゆく。そしてまた飛び降りる。まだ死んでいない。それでまた自殺をやりなおす。この繰り返しが際限なく続く。そのうち、守護霊が彼の肩を叩いて教えてやるのである。怨み、憎しみ、腹立ちの念があれば、それは現象化し固定してしまうのである。したがって、そのような念はみな自分にはねかえってきて、結局自分を苦しめる結果になる。
 したがって、現界では、幽界に入ってまごついたり苦しんだりしないように、想念を浄化しておく必要があるわけだ。音楽を愛し、花を愛し、人に親切をする。美しいものを愛し、善を好み、神や仏に敬虔の思いを持つ。それだけでよいのだ。深く宗教を研究する必要はない。形式はやめて本音の心を磨くことだ。
 
 
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