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 私は霊界を見て来た
エマニュエル・スウェデンボルグ
今村光一・抄訳・編 叢文社
 
 
 霊界の学者と牧師の話

 その2人の霊はいずれも、この世にあったときはかなり高名な人物で、人々にもよく知られていた。1人は有徳の牧師とされ、1人は勇敢な将軍とされていた人物だった。
 牧師は霊界でもこの世にあったときと同じように熱心に説教をし、霊たちに有徳の生活というものを説いていた。彼はいつも自分の説教をつぎの言葉で始めるのであった。
 「汝ら罪深き霊たちよ。わが説ける神の教えを信じ、神の示せる生を送るべし。さらば汝ら、神の許しにより救われん!」
 彼は続いてつぎのような説教を行なうのだった。
 今、この霊界に来ている霊たちは、もともと人間として生まれたにもかかわらず、世間にいた時に熱心に神の教えを聞かず、また、それにしたがった生活も送らなかった。だから、人間であった時に彼らは、その人間として生まれながら持っている罪のけがれを清めることを怠った。そのため、いまこの霊界へ入れられ、天国には入れなかったのだ。だが、悔い改めるには遅すぎるということはない。神は慈悲深いから今からでも許して下さる。それには私が霊界で説く神の教えにしたがって霊界で有徳の生活をせよ。そうすれば汝らも天国に入ることができるであろう。私は、このことを説くために特に神によって、この霊界に派遣された者なのだ……。
 だが、霊界には彼の教えを熱心に聞くものはほとんどなかった。彼は、このことを嘆き、同時に霊たちをつぎのようにおどかしていた。
 「汝ら、わが説ける神の教えを聞くに耳なき者なり。汝ら改めざる限りその罰を受けん」
 彼は、そして罰の内容を示した。それは、やがて霊界にもノアの大洪水が起き、悔い改めない者たちを全て霊界から放逐し命を奪うだろう。また、とくに罪深い者たちはその洪水の前に天空から墜ちて来る大きな岩の下敷きになって亡ぶだろうというものだった。
 また彼は山岳の近くにある霊の団体で説教し、人々が彼の説教に従おうとしない時には、その山岳をやがて彼の祈りの力で崩し、霊たちを亡ぼすとか、海や河の近くの団体のときには同じように彼の祈りの力で水をあふれさせて霊たちに罰を与えるともいって霊たちをおどかした。そして、彼は実際にも霊界の太陽に向かって霊流の力を彼に貸し与え、山岳をくずしたり水をあふれさせたりして神の教えに従わぬ霊たちに罰を与えることを祈っていたのである。
 もう一人の将軍はこの世にあった時には、とくにその戦術に秀でていたことで知られていた者だった。彼は霊たちと会うごとに、ある空気の波のようなものを相手の霊の心に向かって放つことが癖であった。この波のようなものは、想念の交通のときに霊たちが使う想念伝達の手段と同じものだったが、少し違うのは、この波が一般の霊たちの想念伝達のときの感じとはどこか異なるものがあることであった。私も実際に、この将軍の霊と会って話(想念の交通)をしたことがあるが、やはり奇妙なユガミのような感触がどこかにあるのをつねに感じた。
 彼ら2人は霊界では、霊たちには軽んぜられ冷笑の対象にしかならなかった。それが彼らに不満不平を起こさせ彼らをいよいよ愚行に走らせていた。
 では私は、この2人の人物のことについてもう少し詳しく述べてみよう。
 人間の死後において霊として残存するのはもっとも根本的なもの、つまりその人間の本当の性格としての霊的な心、霊的な人格だ。霊界においては、そのため霊的な人格の高い低いとか、本当の意味の霊性の高低とかいうことだけしか霊の人格(霊格)をきめる基準にはならない。なぜなら霊たちは、その霊の本然の姿にかえって霊としての永遠の生を送っているからだ。
 そこで、人間であったときの記憶も本当の霊的な深部、心の奥底に刻まれたものしか残らないのが普通なのである。この2人の場合は少し特異な例といえる。牧師の場合は、教会の牧師としての彼の立場が人間界にあったときには人々に権威として通用したため、人々は彼の説教も聞いたのだろう。彼は、人々に尊敬された記憶が霊界に入っても残っていた。それは彼が人間界にいたとき、人々からの尊敬を受けることを異常に喜び、それが彼の霊の深部にまで達するほどだったからに違いない。だからこそ霊界に入ってもその記憶が残っていたのだ。彼は人々が自分の説教を聞くのは説教の価値そのものが高いためと錯覚したのだが、実際には彼が人々から尊敬されることを異常に喜んだものに過ぎない。彼はこの錯覚に気づかず、霊界においても説教を続けたわけだが、霊的に真正なものしか価値を持ちえない霊界では、霊たちには一種の奇人としてしか受け取られなかった。
 将軍のほうは、長年の戦場の策略が習い性となり彼の霊の記憶にまで達していたのである。彼は戦場の策略、つまり敵をダマす習性が霊界においても出たのだが、これもまた、あまりに外面的なことで霊界においてはすぐ霊たちに見破られ、彼もまた奇人としての扱いしか受けなかった。
 精霊においてすら、人間界でもっていた姿を次第に捨ててその本来の姿にかえっていく。ましてや霊界において、このような外面的なことが価値も持つはずはない。
 私は、このほかにも歴史上に著名な人物――それらは世にある時はいずれも有徳の人とか知識がすぐれた者とか高く評価された人たちだった――が、その本来の霊にかえったとき霊的な知性、理性においても全くとるに足らない霊になっていて、霊界で軽んぜられている例を幾度も見聞きした。彼らは人間界にいたときに外面的な知識とかに捕われて霊的な窓を開くことをしなかった者であった。
 こういう人たちより「心直ぐなる人」のほうが、霊界でははるかに悟り、知性、理性にすぐれた霊として上位の世界に行くことになるわけだ。
 
 
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