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 生きがいの確信
出口日出麿・著 講談社
 
 恐ろしい思念の力

 霊と申しましても、霊魂――自分という意識を持ち、考えを持っている――と、その霊魂から流れ出ている働き――霊気、生気――とのニつに分けることができます。この霊気、生気というものは何にでも宿るものであり、ゆきわたるものであることをよく知っていてもらいたい。
 たとえば、一生懸命に鍛冶が刀を打つとすれば、その一生懸命な気持ち――清浄な、潔斎した人格がその刀の中にはいってゆく。そうして名刀ができる。観る人がみれば、同じ人が打った刀でも、その時の気持ちによって刀が変わってくる。やはり潔斎精進して打った刀のほうが良い。なぜ良いかといえば、中にこもっている霊気、生気が違うのです。刀を打つことのじょうずへたは別問題としても、どことなしにその中にこもっている気魄――何か一種のピンとくるもの、輝きというようなもの、霊気というようなものを感じることは、皆さまもおありのことと思います。ただ眼に見えるか、見えないかだけです。
 これは何にでもあります。時計なら時計というものでも、これをある人が熱愛しているとする。「自分のものだ」と思い、大事に手がけていると、知らず知らずに「これはいい時計だ、役立つものだ、大事にしなければいけない」という想念がこの時計のなかにはいっていく。ですから、この中の霊気体というものの配列が変わってくる。
 要するに、どんなもののなかにも分子とか原子とか電子とかいうものがある。その人が、これはよいと思えば、よいという霊気、気持ちが浸みこむ。浸みこむからして分子、電子、霊気体というものは影響を受ける。見たところ大きな全体には何の影響もないようですけれども、気というものは、どんなものにでもこもる。空気がどんな小さなところ、細かいところにでもはいってゆくように、気というものは、それ以上に、どんな固いところ、狭いところでもはいれる。霊気というものになれば、石の中でも、刀のなかでも、ガラスのなかでも、鉄のなかでも浸みこむことができるのです。
 
人間の想念、思いは、どんなものにでも通じ、どんなものの中にでもはいってゆくものです。一例をあげて申しますと、自分が愛している木や草を、「これは大事にしなければいけない」といって毎日見て歩いているだけで、見て歩かない草木よりも良くなる。お百姓が毎朝稲のまわりをグルグルとまわるだけで、稲の肥料になる。このように、人間の気というものは植物などにとっては肥料になるのであります。
 これは実験して見ればわかります。同じ盆栽なら盆栽を2つおいて、一方に、「良くなれ」という気持ちを通じ、一方には「枯れろ、枯れろ」という気持ちを通じるとすれば、「良くなれ」というほうは非常に良い影響を受けて、ずんずんと良くなり、一方は悪い霊気を受けるから枯れてしまう。何にでもそれは通じるものであり、そういうことがあるから、人間の想念は恐ろしいのであります。
 そして想念が清算されなければ、死後もなおそれが追随して相争うものである。たとえば、源平などが悲惨な戦いをした場所などに行くと、永いあいだ経っていても、その執着の霊だけがのこって、精霊は霊界に行っていても、それに付随していた副守護神というようなものが、今もそういう場所で争闘的な現象をおこしていたり、あるいは人間に憑かって互いに争う、あるいは動物にかかって蛙合戦とか蛇合戦とか螢合戦をする。そういう名所がありますが、そんな所はたいてい、むかし非常な執着をもってそこで争闘がおこなわれたという場所であります。
 そしてまたそういう場所は、かならず人間もなんとなしに二派、あるいは三派に分かれて治まりにくい。どうしてかといえば、霊界の影響が現界におよぶからで、それが人間を使役する。人間に憑かってきて、そういう思いをおこさせるのであります。
 たとえ善良な目的のためでも、実行の際に、地獄的想念が少しでもはいって来ると、おうおう悪魔に乗ぜられるから注意しなければならない。
 
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